最後まで読んでもらえる「面白い」文章を書くには? 「senteceLIVE#10」 #イベントレポ

インターネットには、自分語りの随筆があふれています。そんな「エッセイ」を、私は日々たくさん読んでいます。「有名人や好きなアーティストが書いた自分語りならまだしも、赤の他人が書いたエッセイを読んで、何が面白いの?」と、問われたことがあります。

インターネットがなければ縁もゆかりもなかった「普通のひと」が、どんなことを見て聞いて考えて生きているのかを垣間見る…それ自体がエンターテイメントと思って、私は「赤の他人が書いたエッセイ」を読んでいます。とはいえ、世にあふれる随筆すべてが面白いわけではありません。

むしろ、無数にある素人作の「エッセイ」のうち、最後まで読み切れるものは数えるほど。そもそも知らない人が書いた随筆、書いた人に興味があるわけではないので、面白くないと思えばすぐにタブを閉じますし、最後まで読み終えても、大半はすぐさま記憶から抜け落ちていきます。

では、最後まで読みきることのできる、さらにいうと記憶に少しでも爪あとを残す面白いエッセイと、そうじゃないエッセイの違いは、なんでしょう?

そんな素朴な問いについて、2月に参加したオンライン・イベント「エッセイを「あなたとわたしの話」 にするための工夫を考える【sentence LIVE #10】」を通して、考えました。

このイベントでは「エッセイを書くのも、文章を書くのも、根本的には同じこと」という話になりました。つまり「面白いエッセイ」を書くことは「面白い文章」を書くことと、根本的には同じこと!?

いろいろ考えたので、感想をメモしておきます。イベントの内容だけを知りたい!という方は、登壇者である小野美由紀さんによる、このnoteを読みましょう。イベントのエッセンスはここに集約されています。


1. 文章を書くっていうのは「主語を決めて、相手を決めて、問いを立てる」こと

イベントのメインスピーカーは、作家の小野美由紀さんと、編集者の長谷川健人さん。ライターの西山武志さんもモデレーターとして同席し、3人で和やかなトークが展開…と思いきや、開始早々、小野さんが「このイベントの告知文がひどい」と、鋭い指摘をなさいました。

「どのあたりが良くないのか? あなたが書き直すとしたら、どうするか?」という問いが投げかけられ、突然の演習(ワーク)がスタート。参加者を「登壇者の話を聞くだけ」姿勢から「自分事として考える」モードに切り替えさせるワークでした。時間があるから聞くだけ聞こうかな~とお気楽モードだった私も、慌てて紙とペンを引っ張りだして、考えました。

ワークタイム終了後、小野さんが「告知文がいけてない」理由を、切れ味鋭く解説。少々乱暴になりますが、私なりの理解で要約すると、こんな趣旨でした。

文章を書くっていうのは、主語を決めて、相手を決めて、問いを立てること。それができていない。

そう言われて読み直すと、このイベントの告知文にはこんな問題があるようです。

o 文章の語り手、「主語」がわからない。あんた誰?感。
o 「誰に向けて」書かれているのか、読者像が見えてこない
o 「問い」がわからない、イベント主催の意図が伝わらない

「どんな事務的な文書だろうと、告知文だろうとエッセイだろうと小説だろうと、根本的には一緒。扱う素材と主語の決まり方が違うだけ」

と、小野さんはおっしゃいます。小説は主人公や登場人物が主語になり、描く素材は物語によって自由に設定できるが、エッセイは主語も素材も「私」に限定される。違いはそれだけである……と。

西山さんが「問いじゃなくて、伝えたいことや答えを書きがちですが、あえて「問い」としている意味は?」と質問すると、小野さんは「伝えたいことでもいいんです。伝えたいことの裏返しが問いです」と補足します。

「主語」「読者」「問い≒伝えたいこと」という3つの要素に分解して捉えてしまえば、文章はみんな同じ!……表現は大胆ですが、「誰かが、誰かに、何かを伝える」というのは、文章表現の根本的機能です。そう考えて、私はすんなりと納得しました。

今回のメインテーマであるエッセイについての話題になり、こんな発言が出ました。

「エッセイは、問いを明らかにしていく過程を書くことが多い。その過程をどう読ませるものにするか、面白く見せるかに、スキルが求められる」

スキルとは? 才能? どうやれば上手に書ける? 読み手によって方法は異なる? …と、色々な方向に話が広がるなかで、参加者のひとりが「別のワークショップで小野さんから教わった」と紹介なさっていた方法が印象に残りました。

「自分の感情を微分して、それを文章にする。自分が何をどういうふうに思っているのか、楽しかった・美味しかっただけじゃなく、何がどう美味しかったのか、何がどう楽しかったかというのを、もっともっと細かく見ていくと、その人らしさが出るし伝わる」

「感情を微分する」とは、何かの出来事について、ただ「面白かった」と書くだけでなく、そこに至るまでの思考や、そこから派生して想起される事象などを記すこと。その描写を通して、その人らしさや面白みが出てくる…というのです。

ちょっとしたやりとりにおいて「何かについて、ただ「面白かった」とだけ言われても、よくわからない、伝わらない」という指摘を、私は友人から貰ったことがあります。そのとき、私に不足していたのは「感情を微分する」努力だったのかもしれません。


2. 面白いエッセイは、問いが私のものだけでなく、読者も含めた「We」のものになる仕掛けがある

「その過程をどう読ませるものにするか、面白く見せるかは、けっこうスキルが必要」という話から派生して、「誰に読ませるか、誰の心を動かしたいかにもよる」というコメントも出ました。特定の友人が読む文章なら内輪ネタで盛り上がるのもよいですが、不特定多数の人に読んでもらうためには、読み手に「このひとは私と同じ問いを持っている」と思ってもらう文章を目指す必要がある」と、小野さんは論を展開します。

文章の主語である「私」が持っている「問い」を、「読者」とどうやって共有していくか。自分の感情をどうやって読み手に共有していくか。その「問いの共有」に成功しているのは、たとえば太宰治…という話題になりました。「人間失格を読むと、みんな「これは俺だ」と言い出す」「現代でも「俺が太宰の生まれ変わりだ」というひとがたくさん」と、スピーカーの三名は盛り上がります。

それを聞きながら私が考えたこと。オンラインで誰しもが発信できるようになった現代では、いわゆるインフルエンサーも「問いの共有」に成功している良い例ではないでしょうか。メンタリストDaiGoは、動画タイトルを見ただけで「このひとは私の悩みを解決してくれる」と思わせるのが上手ですし(例:「過去への後悔と未来への不安をなくす3つの方法」)、イケダハヤトは「まだ東京で消費してるの?」等、都会で会社員として働いてる人々に刺さりそうな煽り発言を繰り出してファンコミュニティを醸成しています。想定オーディエンスの置かれた状況を的確に想像しつつ、問いを投げかけていく。やっていることは文章書きと同じです。

イベントの話題に戻ります。「エッセイだと素材は「自分」に限られるため、使える武器が少ない」とも、小野さんは言います。それに対して「嘘は使えないしね」と長谷川さんがコメントすると、小野さんから「1を500くらいに膨らませて書くこともある」「(ある作品は)8割ウソ。本当の私をデフォルメして戯画化した私を書いている」という発言が。いわく、誇張や戯画化も「私の問い」つまり「I」を「We」にするための工夫のひとつ…とのこと。

「エッセイの私も「本当の私」ではない。媒体に合わせて「好きな私」を設定していい」という発言もありました。これ、大切な視点だなと私は感激しました。「自分」の出し方は時と場合によって変えてよいのです。

ブログやnoteの文章を誰かに読んでもらいたい、でも身近な友人に読まれるのはなんとなく恥ずかしい、広報しにくい…という感情を抱くことが、私はあります。なぜそう感じるのか? 文章で出している「私」が、身近な友人に見せている「私」とは異なるから」なのでしょう。不特定多数のまだ見ぬ誰かに、その文章の「問い」を共有してもらいたい……そのために、自分自身のある性質を切り取って描いたり加工したりを、無意識に行っていることがあります。それは「I」を「We」にするための工夫であって、別に悪いことではない。目的遂行のために役に立つなら、適切に誇張強調してもいい……そういう視点は大切だなと、小野さんのお話を伺いながら感じました。お化粧のようなものです。

3. まとめ

本イベントが終わってすぐに、私はTwitterでこんな感想を投稿しました。

イベントのテーマはエッセイでしたが、エッセイにとどまらず、「有名人でもアーティストでもない無名の「私」が書く文章を、一人でも多くの人に読んでもらい、面白がってもらうにはどうすればよいか?」という大きな問題について考えを深める機会になりました。

商業ベースではない、趣味の文章書きの一番の強みは「何を書いても良い」ということです。PVが狙えないマニアックなテーマでもいいし、ECサイトの売上アップを狙う必要もない。自分について書くときも、どんな自分を取り上げてもいいし、加工方法も目的に応じて自由に調整していいのです。

自分のどんな側面を主語にし、どんな読者を想定して、どんな問いを届けていくか。答えはひとつではない。むずかしいけど、おもしろい。これからも試行錯誤しつつ、自由に書いていこう! と、前向きな気分になるイベントでした。スピーカーのお三方とsentence運営の皆様、考える機会をいただき、ありがとうございました。

スピーカーの長谷川さんが、SUUMOタウンで執筆なさった「秋葉原って住むようなところ?」という問いについて書かれた文章。よきです。


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