たとえば、あえて道を間違えるように
数値化が容易な時代となった。五感で取り入れることのできるもの、できないものに関わらず、人々は数え、そして纏める。その現象を表す「単位」が誕生し、そうして分野が始まるか、既存の一部に取り込まれていく。
我々は己自身が己を定義することができない生き物である。人間の数え方は「人」であるが、己とは本当に数えられるものなのだろうか?
数というものはまことに鋭く、鋭敏で、絶対的だ。りんごが1個、とあれば、あらゆる”りんご”と名のつく単位が”個”である物体は、その状況下において1つ以上存在してはならない。もしも、りんごが1個あるとあなたから伝え聞いたあなた以外の誰かが、事実としてりんごが1つではない数存在する(または全く存在しない)状態を認識した場合、あなたのことを「おっちょこちょいだ」「嘘つきだ」と言うだろう。数のことは責めずに、あなたの言葉を詰るだろう。
なぜ、数が責められないのか?言い換えるならば、なぜあなたが責められるのか?それはあなた自身、私たち人間(あるいはその人が外界に向けている態度)が数えられないものであるからではないだろうか?
あなたは、あなた自身のことを1人の人間と思うだろう。仮にあなたが以下の要素を含む人間としよう。
1.他者の指示に全て従う
2.あらゆる自己表現をしない
3.パートナーがいる
実際の人間と比べ、いささか要素が少なすぎることはこの際気にしないでいただきたい。
この3つが他者から提示されたとき、あなたは他者が「自分のことを話している」と感じるだろう。あなたの要素を理解している他者も、あなたのことだと思うに違いない。なにせこの人間は、1か0しかない、即ち幅がないのだ。いる/いない、する/しないのパターンしかない。では、以下の場合はどうだろう?
1.他者の指示におおよそ従う
2.あまり自己表現しない
3.パートナーがいるか不明
「おおよそ」「あまり」「不明」というワードを追加し、文章を少し改変した。さて、この場合どうだろうか?少し解釈の幅が広がったように思う。あなたは、あなた以外の人間からどのように観測されるかによって、あなたを構成する要素が改変されていく。例えばあなたは上司Aの指示には従うが、上司Bのそれはまったく聞き入れない。この場合は、上司Aは「指示に従う」という要素をあなたに抱き、上司Bは「指示を無視する」人間と解釈されるだろう。これだけであれば、まだやりやすい…パターンは2つしかないので、他者から提示されたあなたの要素に対して、あなたであるという確証を抱く可能性は高い。しかし人間はそう少ない要素で構成されてはいない。生まれたばかりの赤ちゃんですら、体重、慎重、生まれた場所と日時、名前に性別…様々な要素を含んでいる。成長していくにつれ、それは増えるばかりだ。
であるならば、果たして人間とは数字で観測して良いものなのだろうか。無数の要素を含み、解釈の余地に富み、様々な視点で観測されているあなたは、”1人”という”単位”で束ねられるものなのか?絶対的な存在である”数字”で、曖昧なあなたが定義されてよいものだろうか?
数字として、単位を付けられて観測されるということの延長線上には、ある種のレッテル張り(偏見?)というものに行きつくように感じられる。そしてそれはすなわち、思考の放棄に他ならない。容姿や社会的立場などの、簡単に得られる要素から他者を観測した気になり、自身の興味の埒外にあるのであれば、それ以上の観測を拒否し、自身の経験や知識を基にプリセットされている人物カテゴリーに押し込む。それが偏っているかも不明なまま、自覚しないまま。
はてさて、しかし人間は数えなければ仕事が出来ない。数字に縛られている一方で、数字に助けられる面も多々ある。両手いっぱいのお米…なんて要素だけでは、焚くための水の量が分からない人間は多い。しかし1合と表示されていれば、およそ200mlが必要と推測できる。思考し、挑戦し、失敗と成功を繰り返す人間の姿にも美しさはあるだろうが、現実は時間が過ぎれば腹はすくし、ストレスはたまるし、材料費もかさんでいく。(昨今叫ばれるSDG’sに真っ向から反することは、世間の情勢的にも良くない)また、労働や勉強で疲れ切っている人間は、まともに料理することも難しい。そして手元にあるスマホから、宅配デリバリーというプリセットされた料理を食す。
つまるところ、曖昧なものを曖昧にしておくためには、余裕が必要なのだ。身体的、精神的、物質的な余裕が。そして余裕とは、自然の状態では訪れない。意図的に作り出さなければ、現代人の生活に余裕などはない。余裕を消費する、魅力的なコンテンツが溢れているし(もちろんこの記事も然り)、置かれている環境によっては、起床している時間のほとんどを生きるために使わざるを得ない場合もあるだろう。なにより、あらゆる概念は空白を嫌い、安定するために”集まる”傾向にある。我々の暮らす環境において、コップに入った水がひとりでに散らばることが無いように。隆起状態にある原子が、いずれは基底状態になるように。人間社会に”国”や”街”といったものがあるように。…ベッドの上で行うSNSの辞め時が分からないように。
この自然の状態に逆らって余裕を生み出すためにはなかなかに根気がいる。余裕は、思考への未来投資なのだろう。
我々は、イデアのない自分自身を持ちながら万物を推定し、それを思考し積み重ね、体系化して、得られた余力をまた別の思考に使う。そうして生み出された分類プリセットに万物(人間含む)を当てはめ、思考の簡略化をする。のちにそのものが自身のプリセットをなぞる様な行動を行った時、自己肯定…「自分の経験や思考過程は比較的正しかったのだ」という確証を得る。そうして簡易化の深みに嵌っていく。もっと無理のある言い方をすれば、「コスパ(コストパフォーマンス)を上げる」…とでも言えばいいのか。なにか滑稽な話だ。曖昧な存在であるあなたが、私が、数字と言う絶対的なものに向かい、執着し、その程度を推し量ろうなどと。…思考を極めた人間が行きつく先は、宗教か発狂か自死だと、著名な誰かが言っていた。では、コスパという「究極の自然思考」が行きつく先は何なのか…
思考停止。とどのつまり、生きてさえいれば良いのだ、あなたは、私は。突き詰めるとろくなことがないのであれば、ある程度の余裕を残すに限る。数えられないなら、分からないなら、推し量れないなら、それを曖昧なままにしておく。そうしておけるだけの余裕は、どうにかして確保したいものだ。
自分に余裕があるかどうかを知るためには、普段とは違う行動がとれるかどうかを試すと良い。今日はあえて遠回りして帰ろう、いつも朝は食べないけど今日は食べてみよう、二倍濃ゆい紅茶を作ってみよう…などなど。ここで「そんなことしても無駄だしな」とか思ったのなら、もしかしたら少し余裕がなくなっているのかもしれない。(これも私の一種のプリセットだが…)
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