理解について

 理解ってなんでしょう。
たぶん、「それが何の集合体なのかを知ること」を理解と呼んでいるんだと思います。
この理解についての自分なりの理論を展開してみようと思います。

 人が物事を認識する順序はおそらく、
知る(発見する)→ 理解する → 納得する
の三本立てなのですが、理解する工程でさらに"それ"を細かく砕いて中身を知る必要があります。

 例えば"それ"が3つの部分から成る物事だとすると
知る(発見する)→ 理解する(
 部分1. 知る(発見する)→ 理解する → 納得する,
 部分2. 知る(発見する)→ 理解する → 納得する,
 部分3. 知る(発見する)→ 理解する → 納得する
) → 納得する
のように、3つの部分についても同じように認識していくことになります。
(本当は3つの部分について理解する工程でもさらにさらに細かくしていくのですが、きりがないので書きません)

 わかりやすい具体例を出すなら七味唐辛子とかがいいですね。
まず七味唐辛子という存在を知ります。
 次に七味唐辛子について理解しましょう、となるとこれは7つの部分(材料)から成っているので、それらを知ればいいことになります。
調べてみると、{唐辛子、山椒、麻の実、胡麻、けしの実、青のり、生姜}などが主な原材料らしいですね。
 さらにこれらの原材料についても深堀りしていき理解することができたなら、これでやっと七味唐辛子について理解することができたと言えます。

 理解について、理解できたでしょうか?
実はこの理論では理解を理解することができません。
少し上のほうに戻ってみると、理解する工程の中にも理解する工程が入れ子になって入っていますね。
 つまり、「理解」の部分としてまた「理解」が登場するので無限ループが発生するということです。これは合わせ鏡のように終わりがありません。
したがって、理解について理解することはできないというのがこの理論の結論となります。

 最後の工程「納得する」、これはその前の「理解する」が完了できなかったため説明することはできません。

どうでしょうこの理論、納得できないでしょう?

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