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私が学校の看護を始めたわけ#2

障害児の親として

 私の子育ての話をします。私には、長女、長男、次男3人の子どもがいます。長女が生まれたのは、38年前、長男36年前、次男32年前・・・ずいぶん時間がたちました。夫が転勤の多い仕事でしたので、何度も転居をしながらの子育てでした。長女は東京で生まれ、6か月で京都への転勤となり家族で転居。長男は京都で生まれました。

 長男は少し小さく生まれ、NICUに入り、数日で家に帰れる予定でしたが、保育器の中で感染症から髄膜炎となり、たった一夜で悪化し呼吸が止まりました。重症の敗血症を起こしたのです。医師からは、亡くなる可能性が高くもし命を取り留めたとしても重症の障害児となると話されました。「障害児の親」の始まりです。

 こうして、「障害児の親」に突然なるのです。いろんな病気や事故など原因は違いますが、ある日突然なんです。

 長男は、治療を尽くして命は取り留めました。医師に「重度の障害が残ります」と言われた時私は、まったく実感もなくどういうことなのか理解はできていませんでした。
 そして様々な検査の結果、髄膜炎の後遺症として、首がすわりもしない、自分で身体を動かすこともできない。また、視力もなく耳も聞こえない、表情を作る事もできない・・・と絶望的な宣告を受けました。

 想像もつかなかったです。徐々に成長していくにつれて、長女との成長の違いを実感していきます。そして、シャントの手術や感染、長い入院、痙攣発作、肺炎などの治療...。

 当時は入院する際には必ず付き添いが必要でした。長女を友人に預けてしのぐこともありましたが、その時間も限られました。環境の変化により長女の体調が悪化し、長野の実家に預けるしかなく、家族バラバラで数年を過ごすことになります。
 一方、長男は危険な状況を何度も乗り越えながらも、諦めずに生きることを頑張ってくれました。

長男3歳の誕生日祝い

長男の通学への準備、就学の壁

長男3歳頃 千鳥ヶ淵でお花見

 長男が3歳になる頃に、東京に戻りました。まだ入院することもありましたが、療育に通い始めます。
 療育は、親にとっても障害のある子どもを持つ仲間との出会いの場でもあり、社会との関わりを思い出すような大切な場でもありました。同時に長女の幼稚園も始まり、やっと周りをみながらの子育てができるようになってきたのだと思います。次男も生まれ子育て奮闘期には変わりなく、次男の赤ちゃんの頃の記憶はほとんどないです。

 そして長男は学齢期になり、就学を考える時期が来ます。25年前の「就学相談」は、厳しいものでした。息子は重症心身障害児でしたので当然養護学校(今の特別支援学校)に行くべきという判定がでました。

 しかし、特別支援学校に行くのには通学バスに1時間半も乗らなければなりませんでした。また、長男に医療的ケアがあったわけではありませんが、重度障害であったためか、学校への親の付き添いは必須条件でした。
 長男は通学できるように、児童発達支援(療育)で体験や準備を重ねてきました。当然学校に通うものと思っていた私は、就学の壁にぶつかったのです。当時区内にあった肢体不自由の特別支援学級への就学を希望しました。養護学校を否定したのではありません。通学不可能な遠い学校、姉と弟もいて付き添い必須といわれても、努力しようにも物理的に無理でした。私の主張は、当時の就学相談では異例すぎて、困難を極めました。
 最終的には、区内の支援学級に通うこととなりましたが、就学の決定通知を受け取ったのは3月28日でした。

そんな時代だったのだと思います。
しかし、この体験や想いが今学校の看護に関わる事になる原点なのかもしれません。

養護学校への転入、学校との関わり

 小学1年生になった長男は、支援学級の先生方が素晴らしい教育、関わりをしてくださって、貴重な2年間を過ごします。私も、息子の育ちや、先生方の関わりから多くを学べた時期でした。

 長男が3年生になる時、転居によって養護学校に転入することになりました。その養護学校は、近くはなかったのですが、支援学級に通えていたことで、長男の体力がついて通学が可能になっていたといった方がいいかもしれません。

 長男は、入院や手術を繰り返した幼児期には医師から「小学生になるまでは、生きられないお子さんです」と余命宣告を何度も受けていました。

 しかし、その年齢も超え、元気に学校に通っている…。私は、「儲けたようなここからの時間を、できる限り子どもにとっても、家族にとっても楽しく生きていく事にしよう!」と、開き直りのような気持ちになれたと振り返ることができます。

 だから子どもが大好きな学校に通うことに毎日注力し、養護学校のPTA活動にも積極的に関わりました。姉、弟も学齢期でしたから、まるでイベント屋さんのように、学校行事などに参加し活動しました。おかげで、学校のことがいろいろ分かる機会になりました。

そして、子どもたちの将来が詰まった、エネルギーいっぱいの学校が大好きでもありました。

長男との別れ、当事者家族から支援者へ

運動会の練習 大好きな先生に声をかけられ笑顔で参加
養護学校での芋掘りイベント 嫌々でも参加できたことが収穫

 長男は、養護学校で小学部3年から高等部2年生まで過ごしました。高校2年生の10月、急に意識を失い、3か月間意識が戻らず人工呼吸器管理となり、入院したまま亡くなりました。17年間の命でした。

  長男が生まれてからの17年間、そして学校での生活は、当然ながら様々な事がありすぎて、とても語りつくせません。
 長男が亡くなった後考えたことは「短い人生にしてしまってごめん…。」と同時に「17年間しかなかったけれど、生ききれた人生だっただろうか?」「生まれて来て良かったと思える人生だっただろうか?良かったと思える人生にしてあげられただろうか?」という事です。

 私にとっては、この子がいたことでしか経験できなかったこと、出会わなかっただろう人達との出会い・・・記憶が飛んでしまう事もあったけれど、全てが、この子に与えられた幸せだと思えるのです。でも、応えてもらう事はできないし本当のところはわかりません。もしかしたら、親のエゴかもしれませんね。

 私が訪問看護から重症心身障害者施設へ転職した理由は、長男を亡くした事でした。同じように、障害や病気をもちながらも懸命に生きている人達の人生とともに在りたいと思ったのです。
 今度は、私が支援者の立場で少しでも役に立ちたいと思いました。

次回は長男とのエピソードや、体験、感じてきたことなどを織り込みながらお話ししたいと思います。

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