美味しい唐揚げ屋さん
この前、好きなアーティストがゲストとして出るバライティ番組をみた。
過ぎるTV …っていうんですけど。
星野源が出ていた時なんですけど。
そこで、星野源が好きな唐揚げの関西の有名店を紹介するコーナーで、
大阪・高槻の「かしわ・つるや」が紹介されて。
そこの唐揚げは、毎朝生きた鶏を入荷して、その場で〆ている。
だから新鮮で、お肉の弾力が想像以上でかなり美味しいみたい。
見た目は、最近流行りの「山ちゃんの唐揚げ」のような衣がサクサクしているのではなく、家庭的なべたっとした感じ。そこまで衣にサクサクさを感じられなそう。それだけれども、美味しいと有名なのは、それほどまでにお肉が美味だからだろう。
だけど、生きた鳥を毎朝〆ている。
ツイッターで「かしわ つるや」を検索したところ、
「毎朝、生きた鶏が運ばれるのをよく見る」
「朝、つるやから鶏の鳴き声が聞こえる」
と書いてある。
・・・・生っ生しい。
仏教徒ではないので、殺生を拒んでいるのではないのだけれども、
その日の朝まで、あるいは、昨日まで、私たちと同じく、鼓動を動かして何かをフィーリングしていたのに、人生の終止符を打たれている。
衝撃というか、なんというか。
私たちに食べられる使命ってなんだか、申し訳ないなと、
生物、全てが食う食われるの宿命があるから、仕方がない。
だけれども、それで、死んだ鶏は、納得できるのか。
そう思ってしまうと、毎日ご飯を食べる時に食卓に肉や魚が上がると考えてしまうんです。
しっかりと、食べて栄養として、生かされます、と思いながら
「いただきます」
というのだと、幼少の頃から、母に言われた。だから、それは絶対に欠かしていない。せめて、私が「いただきます」と感謝するだけで、私に食べられるために死んだ生き物が納得できるならば、しなければならない、と。
それさえできない、人は、果たして命をいただく、重要な行為を軽んじているのだろうか。。そうではないけど、形として、向き合って表現する必要はある。
最後に余談だが、つるや店主のおじいちゃんが
「うちは、獲を毎朝、ここで〆てるんや!」
と語っていたが、どうやって〆ているのか気になった。
今日も、朝何十羽かをおじいちゃんが〆たのだろうか。
もし、〆る役割を、アルバイトかの従業員がしているんならば、その従業員はよっぽど、心が強くなきゃできない仕事だなぁと、思った。
そういう、心を強くして、殺生に向き合った人もいる、殺生されて食べられる生き物もいる、そういう者たちへのありがたみを込めて、
「いただきます」
は必要不可欠だ、と改めて感じた。
う〜〜ん、でも、新鮮なお肉の、唐揚げ。
お源が「今まで食べた中で一番美味しい」と言ってた唐揚げ。
一度食べてみたいっすね。ちゃんと手を合わせて。