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三島由紀夫を「三島」と呼ぶな① 〜『三島由紀夫vs東大全共闘50年目の真実』感想〜

以前、日本は「自罰的」になっているのではないか、という記事を書いた。

東京オリンピックを巡る我々の陰鬱なモードが何なのか、それを「自罰的」という言葉で捉え直すことを企図したものではあったものの、どうも生半可なままで終わってしまった感が否めない。国民感情は日本•日本人自身へ「自罰的」となっており、「オリンピックを中止させたいという潜在的な感情が蠢いているのではないか」というかなり直感的な感覚に基づいて書かれたものであったこともあるが、当時オリンピック開催前•開催中であり、自らの考えがまだ纏まっていなかったことが背景にある。


本稿では、もう一度同じ問題を考え直すことにしたい。その問題意識とは「オリンピック以降の(特に政治への)国民感情は一体どういうものなのか。そしてそれは何が背景にあるのか」ということである。
そのために、映画『三島由紀夫vs東大全共闘50年目の真実』(以下、『三島vs東大全共闘』)とずっと真夜中でいいのに。による『あいつら全員同窓会』を梃子にして考えていくことにしよう。

1.   『三島vs東大全共闘』
本作は、1969年5月13日に東大駒場キャンパスで行われた三島由紀夫と東大全共闘による討論会をテーマとしたドキュメンタリーだ。相反する信条を持つ双方が、討論会を通じて共感し得るところ、分ち得ない点を明らかにしていく様を描きっている。当時の学生運動の雰囲気を体感する上で、極めて面白い作品であるので是非一見をお勧めしたい。

さて。この映画にはそもそも何となく「嫌な感じ」がある。そこから話を始めよう。
存在形態や小難しいマルクス主義めいたジャーゴンを駆使しながら、嬉々として衒学的な議論を三島由紀夫と楽しむ彼らの姿を見て、「今の若者は意見を言わない」「若者の政治参加が急務」…そんな愚にもつかない意見が出てきそうなところが、(映画とは別に)とても不愉快だ。
そんなに若者が時代によって変わるのだろうか?私にはそう思えない。
そうではなく、背景には彼らと私たちの間には大きな前提の相違があり、それを支える時代のモードが異なるのではないか。
第一、繰り広げられる彼らの議論の中身は呆れるほどに響かない。彼らが悪いのではない。今の時代としてアクチュアルな議論ではない。それだけのことなのだ。
ここに関しては再度、2以降で考えていくことにしたい。

ところで、映画では過去のフィルムと並行して、東大全共闘メンバーの現在のインタビューが挟まれている。
全共闘の彼らは一様に東大の大講義室のあの空間が、人生最大かつ最後の晴れ舞台であったかのように物語る。そして、懐かしげに文豪三島由紀夫を「三島」と呼び捨てにする。

映画自体は無論面白い。彼らにとっては人生の1ページを彩るイベントかもしれないが、私にとってはそれはアクチュアルな響きを持ち得ない。彼らが誇らしげに語るほど、そのことが明らかにされていく。ここに感じる「嫌な感覚」は何なのだろう。彼らは真剣に悩み、イベントを開いてまで伝えたいことがあったはずだ。

そのような疑問を持っていた時、ずっと真夜中でいいのに。の『あいつら全員同窓会』を不意に聞いた。
ここには時代に鋭敏なクリエイターが析出する時代のモードがある。
この曲の言葉遊び的な歌詞に惑わされることなく、この作品を手がかりとして時代のモードに迫ってみよう。

2. 浸潤する『同窓会』的モード
ずっと真夜中でいいのに。は、ボーカルのACAねを中心に結成された日本の音楽ユニットだ。今回紹介する『あいつら全員同窓会』はspotifyのCMにも使われており、耳にした方もいるかもしれない。


まずは歌詞を掲載しておこう。

思い通りに起きれない
急いで飲み込む納豆巻き
当たり障りのない儀式みたいな
お世話になってます
手帳開くともう過去
先輩に追い越せない論破と
明る日も来る日も 道草食って帰るが贅沢
もうダンスダンスダンス 誰も気づいてない
ジェメオスよりもゆうもわな落書きに
もうステイステイ捨てる 下積み正義
嫌味に費やすほど人生長くないの
どうでもいいから置いてった
あいつら全員同窓会
ステンバイミー自然体に
シャイな空騒ぎ
ねばった戦績 飛んでった
なりたい自分に絡まる電柱
ぼーっとして没頭して
身勝手な僕でいい
どうでもいいから置いてった
あいつら全員同窓会
ステンバイミー自然体に
シャイな空騒ぎ
ねばった成績 飛んでった
なりたい自分に絡まる電柱
ぼーっとして没頭して
身勝手な僕でいい

この軽やかな歌詞に散りばめられているのは、一言で言えば「明るい諦念」であり、「望まれた疎外感」と言えるだろう。
彼/彼女の気だるい眼に映る「あいつら」は自分とは関係なしに、内輪の話題に盛り上がっているだけーーただの「同窓会」に過ぎない。朝起けの水分の足りない口にねじ込まれた「納豆巻き」のように、漂うモードとしての不快感が提示される。

特に注目すべきは、「同窓会」という言葉に従来付着していた「誘われないと寂しい」といった感情は剥ぎ取られていること。寧ろ「どうでもいいから置いて」いく。置いていかれるのは「僕」ではなく、「あいつら」の方だからだ。軽やかな音楽に載せて、実は辛辣かつ醒めた目線で強烈に聞き手を射抜く。

このモードを、本稿では『同窓会』的モードと呼びたい。これこそが、我々の国民感情を適切かつ辛辣に切り取っているのではないか、これが本稿で述べたいことである。

奇しくも『三島vs東大全共闘』劇中で芥により発せられる以下の発言は、極めて鮮烈にこのモードを示している。

(監督)あの時期を経て敗北したと言われていて…
(芥正彦)知らないよそんなこと。君たちの国ではそういうふうにしたんだろ。
(監督)我々の国ではそうかもしれない…
(芥正彦)俺の国ではそうなってないもん。
(監督)それはえーと芥さん…
(芥正彦)だって証拠がいるんだから ここに。
(監督)どういう…
(芥正彦)私の国には私という証拠がある。
     君たちの国には私がいないからね。

ここで分かることは、政治的に敗北したかどうかに関わりなく、彼らの中では今もアクチュアルな問題たりえているのだ。ただ残念ながら、私達にとってはそれは『同窓会』でしかない。私たちの国の話は、彼らの国には通じない。

トピックが移り変わり、その度毎に関係者たちが『同窓会』的なインナートークで盛り上がる。完全に置いていかれている。それだけではなく、私達はそこに入れて欲しいとも思えない。疎外されているが、参加したいとも思えない。究極の「疎外」の形がここにある。

それぞれの主体が、何かから切り離されていると感じるということは、即ち「繋がりたい/疎外を解消したい」ことの表れであることを今一度思い出そう。同窓会に呼ばれなくても、呼ばれたいと祈念する事は実質的に呼ばれているに近い。(片面的かもしれないが)「繋がりがある」ことの証左だった。

私たちが政治に無関心でありそこに熱狂がないとするとそれは一重に「勝手にやっててくれ」という感覚に近い。政治に実害を加えられないと安心し、諦めた状態では、自分の知らないところで勝手にやっていてくれ、という感覚しか持ち得ない。(間違えないで欲しいが)「今政治が国民に危害を加えていない」と言いたいわけではない。寧ろ、例え実害を加えられていたとしても、それを政治に帰責する風土が失われたことが背景にあると私は考えている。

次回は、この『帰責』の構造について考えるところから始めよう。


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