常識的にと言う罠

ニュースでとある党の代表が花束を贈呈する際に投げ捨てるような方法を取って大炎上していますね。

あの部分を見ればおそらくほとんどの方が
「それはやってはいけない事」
「非常識」
と言う感想ではないでしょうか?

そんな中である記事では
「彼は党の宣伝をするから1000万払え、と金の話ばかり。非礼には非礼で返したまで」
と嘘か誠かあの行動の理由が書かれていた。
この情報の真偽は置いておいて、あの場に至るまでにとんでもない非礼があった事が公になったとしたら数パーセントの方はそれなら仕方がない、と意見を変えるかもしれない。

それは全て各々の常識に委ねられる判断であり、常識的に考えておかしい行動と言うのも個々で基準が違うもの。


なので口癖のように
「それは常識的に考えておかしい」
と言う人がいるのならば
「それは私が考える常識の範囲から逸脱している為におかしいと思う」
に変換される訳です。
客観的に見えて実はものすごく主観的。


多くの人が「各々の」常識的に考えて当たり前の行動を取っています。
世の中で定められる規範に沿うのが常識の基準になっている人もいれば
規範よりも己の損得感情が常識を決める基準な人もいます。

なので実は非常識な人も実はその自覚がなく、本人は良かれとして行っている行動がある事も事実。

なので知らぬが仏ではなく無知は罪、が近いと考えています。

身近な例で考えましょう。
タバコのポイ捨て、これ厳密に言うと不法投棄となり犯罪行為です。不法投棄は普通に罰則もあります。

しかしポイ捨てを日常的に行っている人はどうでしょうか?
軽い認識で行っている、若しくは当たり前に変わってしまい罪悪感がない。
そんな所でしょうか?

ポイ捨てが非常識と蔑まれたとしても
「みんなやってるしむしろ自分で片付けてる人おらんからこっちが常識的でしょ」
と心の中で正当化しようとしませんか?

このように認識は人それぞれですし、周囲が同じような価値観であればそれに引っ張られることも多々あるでしょう。

何が正しく何が正しくないのか、それは周りに流されるのではなく自分の頭で考えた上で基準を作れたら良いですね。
その基準に「何故なら」の理由が付けられるのであれば他者と価値観のすれ違いが起きた時も私の価値観はこうです、と言えるのは素晴らしい事ではないかなーと
そう思った日でした。

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