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#57 研究授業を見る時に意識していること

2学期になって校内の研究授業を見る機会が増えてきました。
今回、自分が研究授業を見る時の4つのポイントを紹介しようと思います。



①他教科にも生きるポイントは何かを考える

数年前ですが、学校の教科分担で、私は図工の研究をしていた時期がありました。

自分が研究授業をする時は必ず「図工」で授業をすることに決まっていました。

そのため他の先生の国語や算数の授業を見せていただく時は「図工の授業に何か生かせるヒントはないか」という視点でよく参観していました。



例えば国語の授業を参観している時はこんなことを考えていました。

「詩の授業は、イメージを言葉のリズム、韻などの言語で表現するのが面白いな」
→「なるほど、図工の授業だったら、そよそよ、さらさらといったイメージを、言語ではなく色と形で表現したらしたら面白い『デザインの授業』に応用できそうだな」

社会の授業を参観している時はこんなことを考えました。
「そうか、一枚の写真や資料の一部を隠して、情報を限定して想像させた方がより考えが深まるんだな」
→「図工でも教材の一部を隠したり、使える色の数を限定したりすることで、より考えながら作品づくりができるかもしれない…」


このように自分の専門教科と他教科を「関連付けること」が今の自分の考え方につながっているように思います。

「その教科の特有の学び」だけでなく、「全教科に共通する授業のセオリー」「授業を考える時の仕組み」のようなものをこの時に意識するようになったと思います。

最近、研究授業を考える時は自分がやる教科と、少し違う教科の授業を見ることで、授業のヒントを得るようにしています。例えば、

例えば国語の「話し合い活動」の授業を考える時は、体育の「ゲーム前の作戦の様子」をヒントにすることがあります。
算数の「数字の並びの美しさ」や、音楽の「楽曲の構成」から、図工のデザインの授業のヒントにつながることもあります。



②自分にはない「授業者のすごさ」を考える

いつも授業を見ながら「どうしたらその先生のような授業ができるか」を考えています。

授業に経験年数など関係なく、自分より若い先生の授業から学ぶことがたくさんあります。


例えば、ものすごく声がハキハキとして、テンポよい授業をする先生を見た時は次のようなことを考えます。

・自分が今あの先生の声量と声の圧で話すためには、普段からどれくらいの声で話すようにすればいいのかな…

・今サラッと話した外国の小話をするためには、自分はどのジャンルとどのジャンルの本をあと何冊くらい読めばいいのだろう…

・あの場面で気の利いたジョークを言うためには、子どもたちとどれくらいの関係を築けていればいいのかな…

このように、その先生の授業を完璧にコピーするつもりで、一挙手一投足を分析していくと、どの先生の授業も自分より「すごい部分」がたくさんあることに気づきます。

(講演会等に参加する時も同様で「今あの講師の先生が話している知識や理論を自分があのステージで90分間話すためには、自分はどんな勉強をしなければいけないのか」と考えるようにしています。)


その先生の授業の構成している要素を徹底的に分析していくと「自分に足りないもの」が見えてきます。

例えば「男の先生が、女の先生のような高い声で歌って手本を見せる」といった、身体的、物理的にできない要素もあるので授業の全てを完璧に再現することは不可能ですが、「自分ができないこと」を知ることで、「自分の良さ」にも気づくことができると思っています。

「自分はこの先生のような○○はできないかもしれないけれど、◇◇は自分の授業の良さかもしれない。もっとここを伸ばそう」と改めて、自分の授業にも目を向けることができるのかなと思っています。


話し方の速さ、声の大きさ、説明の長さ、グルーピング、資料の提示量、板書量など…その先生が授業を構成する要素は一人ひとりその比重が違うので、同じ授業をしてもその先生の授業観が自然と出てしまうのだと思います。それが「授業者の個性」なのかもしれません。

自分が授業をすればするほど「意味のない授業」「無駄な授業」なんてものはないんだと思うようになりました。
そのうえで自分だったらどう授業展開するか、別のアプローチはないかといったことを考えるようにしています。


③やっていることの意味づけをする

まず自分が授業をする時のことなのですが、「理論ありき」で子どもに、その考えを押し付けないようにしようと思っています。

例えば「本で読んだ『○○という理論』を実現するために、自分は子どもにこういう活動をさせよう」というのはちょっと、不自然だなと感じるようになりました。

一方で、授業で子どもを見ている時に、「今彼らがやっていた活動は◇◇という理論が使われていたんじゃないかな」と子どもの自然な姿から意味づけていくことは大切だと思っています。

子どもの姿から「彼らのやっていることにはこういう意味があるのでは?」と想像するということです。例えば、

・子どもがひたすら、10のまとまりごとに、アサガオの植木鉢を並べていたな。スペースを分けるために引かれた線に「アフォーダンス」の要素があるのかもしれないな。

・授業中子どもの試行錯誤する姿が見られたな、「水に関係する言葉を必ず三ついれる」という絶妙な課題設定がこの「フロー状態」を生み出していたのかも。

・この授業ではグループの話し合い活動が盛り上がっていたな。話し合いのはじめに教師が「どの立場に近いか3つのなかから選択させていたこと」が功を奏していたのかも。これは「ピア・インストラクション」の手法に近いな…

このように授業の中の「子どものたちの自然な姿」を「自分の知識」で意味づけられた時、授業が自分の中でさらに面白くなります。

教師である自分が、気づいていないだけで、子どもの活動や、発言は深いものがあるなと年々感じるようになりました。

そのため教師が設定した課題に対して、子どもたちが自由にワイワイ考えている雰囲気の授業が結構好きです。


④教師の頭の中、子どもの頭の中を考える

指導案などに「授業の流れ」はもちろん書かれていると思いますが、授業者の先生にとって「どこが想定外だったのか」を想像しながら参観するようにしています。

あらかじめ、その子どもの発言や展開を「想定していたのか」それとも「想定していなかったのか」
その場の「判断力」が、自分は授業をしていて一番面白い部分なので、授業後の協議会でその先生に直接話を伺うこともあります。

また子どもの頭の中で何を考えているかも考えます。1時間の授業の中で、「何も変化しない子ども」はいないと思うので、子どもの中で何が変化しているかを意識しながら授業を見るようにしています。

子どもの「話し言葉」や「ワークシートに書いている言葉」だけでなく
姿勢、目の動き、机の上に置いているもの、書くスピード、資料をめくる速さなども、子どもが何を考えているかを判断する材料になります。

教室の中で何が変化しているのか子どもたちはどんな力を獲得しているかを考えると見えてくるような気がします。

また子どもの「何も書かずに止まって考えている時間」や「書いたものを消した行為」にも意味があると思っています。これらのことを総合的に考えて子どもの中にある変化を想像していきます。

基本的に授業を見ながら、「あの子はこんなことを考えていたんじゃないか」と想像しながら授業を見るのですが、授業中の子どもの行動や動きでどうしても気になることがあったら、子どもや授業者の先生の活動を邪魔しないように、授業が終わった後にその子に聞くようにしています。




自分が「授業を見る時に意識していることを」今回①~④として紹介しました。

①~④どれにも言えることかもしれませんが「目に見えないものを見取ろうとすること」が大切なのではないかな」と思っています。

今までの自分の参観してきたノートやメモを読み直すと、初任者の頃などは、子どもや教師の言った言葉、時間配分などを細かくメモしていたのですが、読み返すとやはり、授業とは実は「その言葉に表れていない考え」の方が重要だと思うようになりました。

例えば、こんなメモがあったとします。
C1「そうかなるほど!いいことに気づいた!」
C2「○○君の意見を聞いて、工場の工夫がたくさんあることに気付きました。」
T「つまり□□君が言いたかったことは、☆☆ということですね」…

こうやって「言葉のメモ」を見ていると、ものすごくいい授業にも見えますが、もしかしたら教師も子ども全く違うことを考えているのかもしれません。

言葉のメモだけでなく、その子どもの表情や、周りの子たちの反応、その考えに至るまでのプロセスなど…様々なものを統合して、授業の真実、授業の輪郭、子どもたちの変化のようなものが少しずつ見えてくるような気がしています。

45分の授業の中には自分一人では、考えきれない「膨大な情報」があると思うので、これからもいろんな人たちと授業を見て、協議を重ねて、その意味を確認していきたいと思います。

また、授業はその先生の指導観だけでなく「人間性」も感じることができます。
いろんな先生の授業を参観することで自分の中で教師としての「ブレない軸」をつくっていきたいなと思います。

最後まで読んで頂きありがとうございました。

授業を見る時に意識していることは、まだ他にもあるかもしれないので、また気づいたら紹介していきたいと思います。