耳元の温度
桜を散らす雨も、足元を這い上がるような冷たい風もなぐ頃。
いよいよ日も長くなって、窓を開けていることも多くなる。隅々まで掃除をして、洗濯も終わって寝転ぶと、陽気にうとうとしてきて大きく伸びをした。
少しだけ微睡むつもりが寄せた毛布の塊からブランケットを引っ張り出してくるまり始めてしまう。足の指の腹で布の感触をなぞるのは、眠りに落ちそうな時にする癖だ。これから夕食の支度もあると頭ではわかっているのに、なぞるのがやめられない。ふかこーりょくってやつだ。
その時、枕元で携帯がムームーと鳴きだした。いつもよりは早い時間だけど、ちょうどいいタイミングかもしれない。
「何してた?」
「まったりしてた」
「寝てたな。声でわかるぞ」
「お掃除頑張ったから、ちょっとだけ休憩」
「そうやって変な時間に寝るから、夜ふかしになるんだろ」
「まあまあまあ」
体を起こしかけて、小言を並べ立てられるくすぐったさに耳と枕の間に携帯を滑り込ませる。挟み込んでしまえば、手を添えなくても電話ができる。
「いっつも寝てるもんな。英語の再履も起きてんの見たことない」
言われるままもしゃくだと「洋介だって見るたび寝てるよ。当たる前に起こしてあげてるじゃん」とやや突っかかる言い方になってしまう。
「あの教授さ、毎回黒く染めた髪ツヤツヤに固めてくんじゃん。あれに光当たってチカチカしてんの眺めてると、いつのまにか寝てんだよな。ふかこーりょくってやつ」
間延びした返事に、顔が緩む。
「ん。わかるって言ったらおしまいだけど、わかる」
いつまでも本題に入らないってことは、きっと暇を持て余していたのだろう。
窓の外には人の目避けに植えられた竹が青々と枝を伸ばしているのが見える。ゆらゆらと風にそよぐたび、葉がこすれる音がする。
「森の中のハンモックかなんかなんですか。お嬢さん」
「竹がね。生えてんの。聞こえる?」
「小学生のお昼寝じゃないんだからさ。窓全開で寝たら危ないんじゃないの?」
「2階の窓までよじ登ってくる猛者がいたら注意だね」と返すと電話の奥からは呆れるようなため息が聞こえた。
大袈裟なそれが聞きたいがために、ついこういうことばかり言ってしまう。
「ねぇ洋介。面白い話して」
「なんだそれ。ギブ&テイクはギブからだろ」
「なにそれ」
「何かしてほしい時は自分からするもんなの」
「どこの文化?」
「お前以外みんなそうだよ」
「そう?」
「いいから、お兄さんに話してみなさい」
眠気にぼんやりしていたから水を向けただけなのに、うまいのかよくわからないかわされ方をしてしまった。
彼と話しているといつの間にか話し手と聞き手がすり替わっている。洋介は今まで出会った中でも一番聞き上手な人だった。
入学したての浮かれた人が浮かれたままに企画したような学科の懇親会。
そこで出会う異性は誰もが自分の話を聞いてくれる人を求めていた。受験の解放感、大学への意欲、親元からの自立、出会いへの甘い期待…それらがごった煮になったような話は、「従順に聞いてくれる誰か」に向いていた。
これからの学校生活、滑り出しくらい和やかにと、使い勝手のいいほんのりとした笑顔で聞き入るふりをする。相槌は会話の息継ぎのタイミングで唸っていれば、それなりの聞こえ方をする。そんな無気力さにも微塵も気づかず、目の前ではきらびやかに見せたいのであろう話がいくつも陳列されていった。
机の上が彼らの話で埋まる頃には、いよいよ顔を見て聞き入るふりにも飽きてきて、目の端で2,3席隣をとらえる。すると、隣の卓では女子たちはころころと笑いながら気持ちよさそうに話している。向かいにいる男子は代わり映えしない面々だが、なんだか違う。
その違和感の先にいたのが洋介だった。誰もが気持ちよく話せるように聞き入っては、新しい話題は話したくてうずうずしている一人に繋いでいる。そつがない。聞き手にまわり話題をあちこちに振りながらも、楽しそうにその輪の中に座っている。
じっと見過ぎてしまったのか、洋介と視線が重なる。ニヤリと笑ってかすかに肩をすくめる仕草をした。
「ね、うまいもんだろ?」と言いたげなその視線に、同じ匂いを感じてキョロりと目を回して応える。その時初めて洋介は、くしゃりと目を細めて無邪気な笑顔をしたのだった。
魅力的。
ぱっと浮かんだその時の印象は今も変わらない。優しい大人で、いたずら好きの子ども。振り幅のある要素なはずなのに、それらがまろやかに混ざり合い調和が取れている。
ああ、知りたいな。もっといろんな顔を見せて。
きっと、私たちはしっくり来ると思うの。
背中から甘い震えが来る感覚がした。
飲み会もお開きになって順々に外に出ると、近くに洋介がいた。出会って数日だというのに彼の周りにはべったりと人がくっついている。
人をかき分け「ねぇ」と声をかけると、やや大きな声で応じる。案外酒は強くないらしい。
「席遠かったから話せなかった。同じクラスっぽいし仲良くしてね。今度話そ」
「ね。話すことないからいっぱい飲んじゃった。また今度な」
間延びしたような返事に、こういうの好きな女の子は多いだろうなと感心する。
横のいかにも体育推薦って感じの女子が洋介を指差し「こいつ、こんなんで彼女いるんだってさ!」と話しかけてくる。少し鼻白むような気になり、それに少し驚いてしまった。
さっき彼に感じた期待感はそういうことだったの?
あの時感じた期待感は、残念ながら膨らんでいる。
思った通り、洋介と私は似た感覚を持っていた。しかも私も同じく浪人していたし、教員免許も同じ国語でとろうとしている。目的のために授業を受けるよりも、楽しさで授業を受けるからのらない日は遅刻も多い。
そうやって同じ感覚を見つけるたびに積み上がる親近感に自ずと2人でいることが多くなっていた。
最初は授業にいるかの生存確認の連絡は、延々と途切れない会話を運ぶ役目に変わった。
休日もこうしてよく電話が来る。
「この前、渋谷でめちゃくちゃお腹減ってケバブ食べたのね。作ってくれる間って暇じゃん。店のお兄さんが話しかけてくれるのよ」
「お兄さんって日本人?」
「トルコだったかな?なんか中東って感じの人だったよ。でね、お兄さん結構日本語上手いし話面白いから、のっちゃってハイタッチしてきた」
「お前のその欧米ノリなんなの?」
「ね。それでお腹減ってるしもういいやって思って、お店の前で食べてたらお兄さんがティッシュ持ってきてくれてなんかまだ話しかけてくれんのよ」
「口の周りベタベタにしてたのかわいそうに思ったんだな」
「ああいうのって食べにくいから下手くそが食べたら、もうね。でね、サービスだよってジンジャエールもくれて」
「タダとかずっこいやつだな」
「んで、LINE交換しよって言われた」
「ナンパじゃん」ゲラゲラと笑う声が耳元で響く。
「で、なんて答えたの?」
「それはいいかなって、ごちそうさましてきた」
「彼氏いないんだからチャンスだったじゃん」
「初めてが異国の人なのはちょっと規格外かな」
「ノリが日本人としては規格外な感じあるけど、そこはダメなんだ」
つぼに入ったのかいつまでもけらけらと笑い続けている。
「なに笑てんねん」
「お前が中東の彼氏連れてても、俺は友達だからな」
毎日のように連絡を取り合っても、一緒の授業ばかりとっていても、一緒に授業をさぼってはキャッチボールしていても、私と洋介の間には線が引かれている。私は私で今の心地よさにその線を飛び越えられずにいる。
時々こういう会話でその線引きを確認しては、飛び越える様子がないことに少し寂しさを覚える。今日も「異常なし」なのか。
洋介の彼女は他大の学生だったから、様子もわからない。付き合いは長いらしいけれど。
その彼女って私より合う?
聞けないくせにそんなことばかりがぐるぐると頭を巡る。
きっと多分私たちうまくいくよ?
自信家と真逆なくせに心の中でだけは、強気だ。
話していると温かな風が少しひんやりとした雰囲気を帯びてくる。二の腕が冷たくなり始めると耳元に温かさを感じながら、さらさらと肌をなぞる。
「眠い?」
「もうそろそろご飯作るし寝ない」
「なぁ明日って暇?」
「おごるよとかいってくれる人には暇って答えるかな」
「あつかましいんだよな」
「何?」
「ご飯行こ」
「行く!」
これは「異常あり」なのかな。それともいつも通りなのかな。
きっと洋介は知らない。心の中でたった今から緊急の専門者会議が開かれるなんて。
教えてもあげない。あなたに惹かれているなんて。