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水面のきらめき

いつものようにボタンを押し進めていくと、あるページで止まる。
もうこの時期か。
更新はこれで何回目になるだろう。窓口でシールを張り替える手続きをしてたけれど、いつのまにか画面で完結するよう変わっていった。いつまでも一昨年くらいに感じてた「あの時」はそろそろ8年前になる。

ねぇ、本江くんは今も更新してる?


「本江先生。いつも一生懸命にね、指導レポート書いてるのわかるよ。だけどね、これお父さんお母さんがこの字見たらどう?」
ただでさえ甲高い室長の声がいつにも増して教室中に響き渡る。これで何回目だろう。最終コマが始まったばかりで、生徒の出入りは少ない。かしましい中3女子も帰ったところだったから、よかったね。
心なしか落ち込んでいるような背中に、哀れみの視線を送る。2ヶ月前に入ったばかりだし、もう少し優しくしないと辞めちゃうぞ。

書き終わったレポートをファイルの上に置いて、教材準備をしながらお小言が聞こえなくなるのを待つ。
「あ!紗江子先生、書き終わってる?見ちゃう見ちゃう!本江先生はもうちょっと頑張ってね」
捺印のないレポート片手に戻る姿を横目に、さっさと今日の分をチェックしてもらう。他の講師も続けとばかりに列を作り始めた。
小テストをコピーしてると、後ろから声をかけられた。
「紗江子先生、俺の字って汚いですか?」
見ると確かにおおよそ綺麗には見えない字が大きめに並ぶ。室長が嫌いそうな書き方。
「国語で受け持つ小6男子には、試験官に読んでもらえる字か聞いてから受け取るよ。本江くんのは?」
「ん〜、だめか。考えるスピードに手が追い付かないんだろうな」
落ち込んでると思ったけれど、案外マイペースかもしれない。
「天才は字が汚いとか、男子たちも教えてくれるね」
「小6と同じ思考か」なおもぶつぶつ言っていたが書き直すらしい。
「室長、今日はあんまり機嫌良くないみたいだし災難だったね。まぁ大丈夫だよ頑張って」
「紗江子先生、どうやったら字が上手くなるんですか?」
「さぁ。習字習ったことないし、わかんないな」
俺は習ってたのに、とかなんとかいう彼を後に教室を出る。まともに喋ったのは今日が初めてだったと思うけれど、変な人。

次に会ったのは講師仲間の飲み会だった。OGも多く私は楽しめるが、本江くんは所在なげに座っている。ちょうど隣が空いたタイミングで手招きすると嬉しそうに座ってきた。
「丁寧に書けるようになった?」
「お、綺麗にって言わないあたりいい人ですね!」そう言うと八重歯をのぞかせながらひきつり気味に笑う。独特の笑い方だけど、心から楽しそうだ。
「あんまり飲めないから、なんか場違いですね」とストローがささったグラスを掲げてくる。
「楽しいとこだけ楽しめばいいよ。飲むかどうかなんてあの人ら気にしてないから」
「じゃあ紗江子先生先生の楽しいことって何?」
「今、ちょうたのしんでるよ」代わり映えない飲み会に声色だけは楽しそうにしてみても言わされている感がにじむ。
「そうじゃなくて。普段何して過ごしますか?」
「映画観てるね」そう言うとまた八重歯がのぞく。
「俺も映画好き!今どの映画、気になってます?」
「『ジュリエットからの手紙』かな」
「アマンダ・セイフライドね。俺も気になってたんです。これはもう一緒観ましょ」
そんなに取り上げられてないタイトルかと思っていたから意外な反応だった。今気になる作品と聞いてくるあたり、よく観る人なのだろう。
「月、水は塾ない」
「じゃ、俺水曜なんで来週の月曜日にしましょう」
「どこにする?」
「穴場見つけちゃったんですよ〜、府中でどうですか?」
「ちょうどいいね」
「じゃ決まり!時間とかは連絡します」
その場で連絡先を交換し、席を立つ。飲み始めが遅いせいか終電の時間が迫っていた。
「先帰るけど、最後までみんなに付き合うことないよ」
「ここからチャリだし、流れに合わせます」
「そ。じゃあ頑張ってね」

電車に乗り込むと、今日のことが思い出された。思いがけず、一緒に映画を観ることになった。一人で観るばかりだったから、思ったよりも楽しみにしている自分がいる。観終わったら彼はなんというのだろう。


「俺もジュリエットに手紙書くわ」
シアターを出るまで無言だった人がぽつりとつぶやく。顔を覗くと目元がうっすら色づいていた。
「観終わったら感想言い合いたい人?それとも数日寝かせたい人?」
「どっちも。今日は語りたい。紗江子先生は?」
「私も今日は語りたい日。ご飯いく?」
ちょうど一階下がったフロアはカフェが並んでいたのでその一つに入る。
そこからはメニューを選ぶのもそこそこに二人とも語りたいがままに話し出す。私も気づいていたこと、気づかなかったこと。人と何かを共有して話すことがこんなに楽しいとは知らなかった。この一回限りにしてしまうのは、名残惜しい。
「次、何にします?これもう映画の会、定期開催でしょ」
「『抱きたいカンケイ』は?」
「ナタリー・ポートマンじゃん!俺ほんと大好きで、ゲイリーと仲良く写る写真ずっと持ってるんだよね」そう言ってナタリーが屈託なく笑う画像を見せてくる。
「可愛い。じゃあまたここ集合?」
「ここで語り合うまでが映画の会、でしょ」

そこから月に2度ぐらいはお互いに観たいもの観合った。途中でメンバーズカードがあることを知って、二人とも加入した。

「最後の最後まで回り続けてたこと考えると、夢だと思うんだよね」
「夢に残り続ける選択肢は選ばないと思うからあれはあの後止まったって」
「「ほんと絶妙な映像の切り方だよね」」

本江くんに観たものの感想を送りつければ、返事がすぐに帰ってくる。観てないもの感想が来てはすぐに観た。小学生が読書週間に冊数を競うようなもの。勝ちたい気持ちはないけれど、彼が知らない素敵な映画を見つけたら得した気分になる。
「『(500)日のサマー』観たんだけどさ、ズーイーに恋した」
「冒頭のメッセージが一番くるね」

時々ゲストを迎えて、その人のリクエストを一緒に観る企画も立ててみた。
「『ドラゴンタトゥーの女』は女二人に俺ってなかなか気まずいチョイスだったかも」
「あの子途中から寝てたし、お互い違う意味で気まずいかもね」
ゲストは定着せず、二人での居心地の良さもあって、そのまま二人で観ることの方が多くなった。

ジンジャエールのMサイズとミルクティーのMサイズ、座席は目線の高さより2列後ろ、映画終わりにDucky Duck。それが私たちの定番。
本江くんの左隣は私の定位置。
恋というにはもったいないほど、温かな気持ちが流れるこの関係がいつまでも続くことを願った。

だけど、それはほんのつまらないことで打ち砕かれることになる。
恋人の嫉妬。
今ならそれが愛でもなんでもないとわかるのに「愛してるならやめて」の一言に、その頃の私は「わかった」としか言えなかった。

最後に約束してあった一本だけはその戦火から逃れることができた。一緒に観るのはこれで終わりになる。
映画は痛快で壮大なとても素晴らしい作品だった。何度も見返しては、人に紹介するだろう。
「今日は語りたい日?寝かせたい日?」
「…寝かせたいかな」
本当は今すぐにでも感想を言いたいし、知りたい。だけど聞いてしまえばすべて終わってしまう。そう思った。
「そうだね。俺もすごく響いたからじっくり味わうよ」

一緒に行くことはなくても、映画が好きなのは変わらない。一緒には観ない、それだけのこと。それでも寂しい。
それからはなんとなく観たものの感想も送るのも気が引けて、変わらず講師として顔を合わせているのに映画の話はしなくなってしまった。

やがて大学からも塾からも卒業の時期が来る。
ありきたりでも嬉しい寄せ書き。そのアルバムに収まりきらないほどたくさんの人から労いの言葉をもらった。本江くんは後の方に書いたからなのか、アルバムのケースにこじんまりと書き連ねていた。
「一緒に映画を見てた時間に救われた。ありがとう。本江」
救われていたのは、私のほうだ。
フィルムの海を自由に泳ぎ回った。その中だけが息がしやすい場所だった。居場所をくれたことをこれからもきっと忘れないだろう。


社会人になり、人づてに結婚したらしいことを聞いた。もしかしたら子どもも生まれているのかもしれない。社会人一年目こそ取っていた連絡も今は途絶えている。寂しさからも少し距離ができた。

それでも更新のたびにあの愛おしい時間を少しでも思い出していてくれたら、嬉しい。
もしかしたらフィルムの海からは遠ざかっているかもしれない。それでもいい。いつでもそばにあるのだから。


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私はこれからもこの広い海原を泳いでいく。

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くまみ
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