完食と会食恐怖症
感覚過敏持ちの私。大人になり小学校に勤務するようになって、献立表を確認したら、1ヶ月に1回、完食ができるメニューがあれば良い方、1ヶ月に2回、完食がてきるメニューがあったら奇跡、のような感じだった。
「今日、完食できたよ!!」家に帰って母に言えるのが嬉しかったのを覚えている。
残す罪悪感より、全部食べられた喜び。子どもにとって、残さず食べられた時の達成感ってあるよな、と今、子供達をみて感じている。
最近、会食恐怖症という言葉がしばしば取り上げられている。その度に私は本当に恵まれていた、としみじみ思う。
まず、初めての給食を指導してくれた先生の存在が大きかった。
翌年も担任してもらい、その年が定年退職だったため、離任式では先生から指名してもらい花束を渡した。朝、他のクラスの先生に呼び出され、花束をRinちゃんからもらいたいと言ってたんだけど、お願いできる?って言われたのを覚えている。その後も年賀状やメールでやり取りをしている。
そして、中学のクラスメイトたち。
きっかけの声をかけてくれた男の子は、同窓会で再会し、以降連絡を取り合う中で結婚式に招待してくれた。
その時の話はまた今度書こうと思う。私にとっては大きな成功体験だった。
会食恐怖症。
ほとんどが給食の間違った指導が原因。
極論、給食を食べきれなくても、生きていける。
改めて教育者として給食の現場で思うことは、
・給食は食への興味の入口であるべき。
・給食は未知の食材、料理と出会う機会である。
・給食は「今の」自分が、何が好きで何が苦手と感じるのか知る場である。
「今の」がとても大事。
感覚は成長とともに変わっていくから。
私は残す罪悪感があるから、基本的に気の置けない人(=食べ物の交換こができる人)としかご飯に行かない。
お店によっては「食べられないので…」と事前に伝えることがあるけれど、お寿司で食べられないネタから違う食べられないネタに交換されたり、食事中にスタッフさんが細かい確認に来てくださったり…
スタッフさんや食事しているメンバーに手間と気を遣わせてしまっているな、と感じる場面が多い。
人に迷惑をかけずに、でも食事は楽しみたい。