ADHD→社会では不誠実。生き物としては最高に誠実。

ADHDは端的に、

社会の何もかもを舐めくさっている。

(いい意味で)

のではないかというひとつの仮説に行き着きました。


ADHDの人にとって、
「自分の命の危険がある」状況以外、

基本別になんでもいい。
ぜんぶ最高! 


という考え方が生まれつきあるのではないかという仮説を持ち始めました。


その一番つよくて確固たる信念を根底に持つため、

"真剣なフリ"はできてもすべてにふざけた意識で生きています。



宿題を提出する、
時間を守る、
業務を遂行する、
つまらないことに真剣に取り組む、

↑別にやらなくても死なないじゃん!


という気持ちがどうしてもあります。


自分が社会で評価されるか、
怒られないか、

よりも自分の気持ちを大切にしています。
そしてそれを遂行します。
遂行するというか、それ以外は絶対にできません。
頭に銃口を突きつけられない限り。


これは 賛否があるかもしれませんが、

人間は生き物として
「存在しているだけでいい。生きることはそれだけで無条件の喜び」

だと思っています。


社会で何と言われようが、
陰口言われようが、
怒られようが、
軽蔑されようが、


そんなことはどうでもいいのです。


そんなことよりもずっと自分の強すぎる根底の信念を常に優先させてあげているとも言えます。

そういう意味でADHDは、

めちゃくちゃ誠実。生き物として。魂として。笑

過去や未来が存在しません。

「いま、ここ」にしか生きていない。



「いま、ここ」を全力で感じて、全力で生きています。


ADHDの一番の才能は「感動する能力」。

風が吹けば気持ち良さにおいおい泣き、
自然の美しさにおいおい泣き、
すれ違った人の優しさにおいおい泣き、

またそれを全身全霊で表現します。


なにかを表現するとき、一点の曇りもないように表現しようとします。



「想像や想定」の幅が兆ではなく、一京なので、


なにかをやる際、


銀河の中でも輝くものしか創り出す意味がないと思っています。


誰かに見られるとかは関係がなく、

なにかをするのであれば、

考えうる最高のものでなければそもそもわざわざやる意味がない、と思っている節があります。


たとえば、料理。

自分のこだわりをすべて発揮せねば!と思っています。
もしそれをしないのならばカップラーメンでいい。吉野家でいい。
0か100か、です。



それは外からの評価ではなく、
自分の中で「やりきったか」という実感が全てです。


ADHDの人に「心をオープンにしたコミュニケーション」が多く見られるのもこのためではないかと思います。


なにかを伝える時に、自分の頭の中、心の中のものを忠実に伝えることに全力になります。


堅苦しいなんとなくの「大人の会話」は、ADHDにとって苦痛以外の何物でもありません。


実際にADHDは脳の構造に違いが見られるため、時間管理やセルフコントロールを極めていくことは大切だと思いますが、


今回は 

専門性のある知見を一旦無視して、私からの視点ですこしお話してみました。

次回は、そんな「ADHDが輝く道、成功していくには」という記事を書いてみます。

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