「ただ可愛いだけでなく、速さというポテンシャルを秘めているところも魅力です」 アバルト・ビアルベーロ 1000
2020年12月31日、一年の最後の日となる大晦日に東京の崎山自動車サーヴィスの工場は昼から多くの人々で賑わっていた。
社長の崎山和雄さんが77歳の高齢を理由に、この日を最後に工場を閉めて引退する。それを労うために、顧客と関係者たちを集めて小宴が催されたのだ。働いていた工員たちは、他の自動車修理工場へ転職することも決まっている。
崎山自動車には、僕も世話になったので工場に駆け付けた。工場のあるのは東京の中心地の港区三田5丁目だ。三田という街は古くから武家屋敷や寺などが多く、閑静な地区だった。現在は、オフィスや住居などもあるが大学や大使館、公園などが多く、静かで落ち着いた地域であることは変わらない。
そんな地域に自動車修理工場なんて?と思われるかもしれないが、港区の一部の地域では戦前から軽工業が盛んだった。金属加工や機械製作、自動車修理工場など小規模な工場や製作所などが軒を連ねていた。しかし、それらも時代を経るに従ってほとんどが郊外に移転していった。崎山自動車サーヴィスは数少ない、都心で営業している自動車修理工場だった。それは、港区で生まれ、港区で育ち、16歳で修理工となった崎山さんの気概であり、東京人としての郷土愛だった。
33年前にすぐ近くから移転した際に土地を取得し、建物を新築するために多額の借金をしたと聞いた。
「だから、これから休まず働かなきゃならないんだよ」
自信たっぷりに、笑顔でそう言っていたことを憶えている。実際、崎山さんは良く働いていた。工場は繁盛していて、その評判は東京だけでなく、広く全国に知れ渡っていた。僕も、以前に乗っていたプジョー505GTiとTVRグリフィス500の整備を依頼していたが、繁盛する理由がわかっていた。
ひとつは崎山さん自身がカーマニアだから、カーマニアの気持ちが良くわかることだ。自身で7年間掛けてコツコツとフルレストアしたフィアット・アバルト1000ビアルベーロやメルセデス・ベンツ190E/2.5-16などを所有していた。仲間たちとジムカーナを開催し、自分もビアルベーロでエントリーし、楽しんでいた。
いいクルマを持っているだけでなく、それを走らせて楽しんでいるライフスタイルに、同じカーマニアたちが大きな信頼を寄せていた。僕も505GTiに乗っていた時に、購入したプジョーの輸入元の工場が杓子定規なマニュアル通りの対応しかせず、細かなトラブルが解消しなかったことから崎山自動車サーヴィスに持ち込んでみたのが付き合いの始まりだった。
崎山さんは僕の要望をひと通り聞いたあと、「ちょっと走ってみましょうか?」と僕に運転させ、次に運転を代わって、僕が気になっていた症状を再現し、確かめた。
「ああ、このぐらいの回転数とスピードで走ると、確かにエンジンがモタ付き、回転が鈍くなりますね。わかりました。戻って直しましょう」
乗って確かめ、原因を追求し、すぐに直してもらった。文字にすると簡単なことだが、エンジンの不調に悩まされていた僕に寄り添って解決してくれた崎山さんが、とても頼もしく見えた。
2003年にトヨタ・カルディナで東京を出発し、船でロシアに渡って横断し、ポルトガルのロカ岬まで走る計画を立てている時にも世話になった。道中で、クルマ泥棒からカルディナをどう守ったらいいのか、崎山さんに相談した。数日後に明るい声の電話をもらった。
「見つけたよ。F1マシンのように、ハンドルが脱着できるようにして、クルマを離れる時に外すんだよ。どう?」
たしかに、ハンドルのないクルマを盗めても、運転できないし、売り飛ばすこともできやしない。カルディナのエアバッグを取り外し、ハンドル中央のカバーを切り抜いて、ボルトを十字レンチで回し、簡単にハンドルを脱着できるようにしてもらった。ホテルにチャックインする時だけでなく、ランチで食堂に入る時やスーパーマーケットで買い物する時などでも脱着を履行したので、カルディナは盗まれずに済んだ。
崎山さんのビアルベーロは、レストアが完成した直後に一度見せてもらったことがあるだけだった。写真やビデオなどでは何度も見たことがあったが、最近はない。引退されたのだから、これからは乗って楽しむ時間もできたのではないか?
「膝を壊しちゃったから、売っちゃったんだよ。紹介しますよ」
反応が速く、人と人のつながりを大切にするところも慕われる理由のひとつだ。
7年前に、崎山さんからビアルベーロを譲り受けたのは篠原 学さんだった。父親が以前からの顧客で、篠原さんも連れられて子供の頃から工場には良く来ていた。
さっそく篠原さんのお宅にお邪魔すると、素敵なガレージにビアルベーロは収まっていた。以前は賃貸マンションに住み、離れたところに駐車場を借りていたが、クルマと家族のために土地を買ってガレージを一階に設けた家を新築した。鮮やかな緑色のドアや内部の照明などはイタリア製の製品を用いている。リビングルームの家具などもイタリアのものが多い。
クルマも、これまでイタリア車が多かった。アウトビアンキA112、フィアット・バルケッタ、マセラティ・スパイダーザガートを2台、フィアット・ウーノターボ・アバルトスペチアーレ、フィアット・チンクエチェント、現在の日常用のフィアット695 Anno del Toro。途中で、BMW1シリーズを2台乗ったが、それ以外はすべてイタリアのクルマに乗り続けてきている。
「カタチや雰囲気が好き。ホッコリしていて、工業製品っぽくないところが良いですね」
フィアット・アバルト1000ビアルベーロというクルマは、フィアットの大衆車「フィアット600」をベースにアバルトが専用ボディを架装し、専用エンジンを搭載したスポーツカーだ。
ボディはご覧の通り、1960年代のイタリアンルックで、労わりたくなるような可愛さだ。リアエンジンなので、後部が長く、それが流線型を帯びつつ伸びて、スパッと切り落とされたようなコーダ・トロンカ様式もこの時代ならではだ。
エンジンフードを閉めても、開口部が開いたままでエンジンルーム内部が見えるのが、このクルマのスタイリングの最大の特徴になっている。その中に見えるのは、このクルマのために造られた982ccのDOHCエンジンのヘッド部分だ。イタリア語で「Bialbero」とはDOHCのことで、吸気と排気それぞれが独立した2本のカムシャフトが備わっているところが良く見える。
DOHC化することによって、より高回転域まで回すことが可能となり、このエンジンは7200回転で最高出力90馬力を発生させることに成功している。この時代としては、異例に高回転だし、それによって高出力を稼ぎ出している。
現代では、カムシャフト形式がDOHCであるかSOHCであるかは搭載されるクルマのパフォーマンスに大きな意味を付与することはない。重要性は相対的に弱まったが、昔は大違いだったし、貴重で高価だった。だから、車名にも謳われているのだ。
この造形は機能を形態として見事に表現できていると言えるだろう。この時代ならではの造形思想が表れている。フロントのちょこっと開けた開口部と対応するかのようにフードが口を開けている様子は、クルマというよりは小動物のようにも見えてくるから、とても可愛い。
篠原さんは、23歳で初めてこのビアルベーロを見た。予備知識もなく、崎山自動車の工場に置かれているのを眼にして、その魅力の虜になった。
「見れば見るほど可愛いかった。ただ可愛いだけでなく、速さというポテンシャルを秘めているところも魅力でした」
その頃は、まだ自分のものにしたいとも、できるとも考えたことはなかった。だからといって、忘れることもなかった。篠原さんは前述のようなクルマに乗り、趣味のフライフィッシングに出掛け、仕事も頑張った。
「初めて見てから10年ぐらい経って、“もしかしたら、買えるんじゃないか!?”って思うようになって、崎山さんに“手放す時には知らせて下さい”と話しておいたのです」
その頃には、海外から輸入された別のビアルベーロもあって、売り物になっているものが2台あった。
「京都と浜松に、見に行きました」
ビアルベーロは希少なクルマだ。全部で66台しか生産されなかった。当時、日本へは山田輪盛館という輸入車ディーラーによって2台が輸入されていて、篠原さんのビアルベーロはそのうちの1台だ。
残念ながら山田輪盛館は現存していないが、戦前は外国製2輪車を輸入し、戦後はオリジナルブランドの2輪車「HOSK」を製造販売し、4輪車の輸入も1950年代から始めていた。取り扱っていたのはアバルトの他、ファセル・ヴェガ、グラースなど、いずれも個性的なブランドばかりだった。
2台のうちの1台は個人が購入し、1965年に船橋サーキットで行われた「全日本自動車クラブ対抗選手権(CCC)」レースに出場し、一時はトップを走るもののリタイアに終わっている。
そして、もう一台はトヨタが研究用として購入した。
「2TGという1.6リッター4気筒DOHCエンジンを開発するために参考にしたと言われていますね」
2TGは、セリカやカローラレビンなど広くトヨタのスポーツモデルに搭載されていた。モータースポーツ関連部署が管轄し、その部署と取引のあった崎山さんが存在を知り、長い交渉期間を経て譲り受けた。その時に渡された昔のアルバムにはモノクロ写真がたくさん貼り付けられていて、ビアルベーロだけでなく、さまざまな海外のクルマがテストされている様子が写っていて見入ってしまう。
1981年1月に崎山さんのところに来た時、ビアルベーロはスクラップ同然の姿だった。すべての部品を外し、塗装を剥ぎ取り、7年の歳月を掛けてフルレストアを行なった。その記録も克明に写真を撮影している。1988年に完成し、ナンバーを取得した。顧客や仲間たちとツーリングに出掛けたり、ジムカーナに出場したり、崎山さんは乗って走って楽しんでいた。
崎山さんのビアルベーロは有名だったから、「譲って欲しい」という申し出はたくさん寄せられてきていた。だが、崎山さんは最初に声を掛けるのは篠原さんだと決めていた。
「このクルマのことを昔から知っていて、これからもずっと可愛がってくれそうだったからね」
持病の膝の痛みの悪化が譲渡の理由だった。
ビアルベーロには崎山さんが集めたスペアパーツなどがたくさん付いてきた。また、街中で運転しやすいようにアウトビアンキA112のエンジンに載せ替えられていた。もちろん、オリジナルエンジンも一緒に付いてきた。サスペンションもオリジナルは硬すぎるので、柔らかいものに交換した。
造形に惚れ込んでいるので、家を建てる時にビアルベーロを家の中から眺めることができるガレージを設計した。
「このカタチと運転席からの眺めが好きです。一か所も、嫌なところ、嫌いなところがなくて完璧です」
アバルトに乗っている仲間同士でツーリングに行くこともあるが、眺めて愛でるのが好きだという。
「アバルトは可愛いクルマを造ろうとしたわけではありません。ボディに沿った空気の流れを整え、速く走るために設計したら、結果として可愛く見えるカタチになったのです」
目標がある。
「55歳までに新車のような状態にレストアすることと、そこから65歳まで乗って楽しむことです」
楽しみは、先に取っておいてあるのだ。
(このテキストノートはイギリス『TopGear』誌の香港版と台湾版と中国版に寄稿し、それぞれの中国語に翻訳された記事の日本語オリジナル原稿と画像です)
文・金子浩久、text/KANEKO Hirohisa
写真・田丸瑞穂 photo/TAMARU Mizuho (STUDIO VERTICAL)
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