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人々がクルマに求める要素が大きく変わり始めていた兆候を見事に掬い上げていた日産Be-1

 このテキストノートは2018年のイギリス『TopGear』誌の香港版と台湾版と中国版に寄稿し、それぞれの中国語に翻訳された記事の日本語オリジナル原稿と画像です。

文・金子浩久、text/KANEKO Hirohisa
写真・田丸瑞穂 photo/TAMARU Mizuho (STUDIO VERTICAL)
Special thanks for TopGear Hong Kong
http://www.topgearhk.com

 日産Be-1は早過ぎた。つくづくそう思う。

 日産マーチのコンポーネンツを利用し、独自のボディをまとったBe-1は1987年の発表当時、大きな話題を呼んだ。1万台の限定生産台数に対して、たった2か月で予約が完了してしまった。クルマがそんなに熱狂的に人気を呼ぶことなどなかったので、一種の社会現象として一般メディアにも盛んに報じられていた。

 Be-1は全国の日産ディーラーで販売されたが、東京・青山に「Be-1ショップ」を期間限定でオープンさせ、Be-1本体の展示の他、同時に発売されたアパレルや雑貨などのさまざまなBe-1グッズが販売されていた。現在では珍しくない“コンセプトショップ”の先駆けだった。

 Be-1が人気を集めたのは、そのスタイリングによるところが大きかった。当時、角張ったカタチのクルマが多かった時代にあって、Be-1は正反対の丸さを前面に押し出してきていた。また、その“丸さ”も流線型に基づく丸さではなく、“可愛らしさ”を表現していたように見えた。

 Be-1は人気を呼んだが、クルマ好きには眉をしかめて冷ややかに眺めている人が少なくなかった。僕もその一人だった。

 なぜならば、自動車というものは機械としての合理性によってのみ設計、企画されるべきものだと考えていたからだ。つまり、ボディのデザインやパッケージングなどにはすべて理由があり、それらはすべて機能によって裏打ちされていなければならない。モダニズムの考え方だ。

 フォルクスワーゲン・ビートルが空冷エンジンをリアに搭載していることやローバー・ミニがトランスミッションと連結した水冷エンジンで前輪を駆動していることなどにはすべて理由があって、それらは機能的な必然性によって成り立っている。

 クルマは理詰めに設計されるべきもので、そこに情緒やましてやマーケティングなどが入り込む余地などは1ミリもないはずだと考えていた。

 僕は「クルマは優れた機械でなければならない」と考えていたから、Be-1の媚びたようなデザインは認められなかったし、グッズやコンセプトショップの存在理由も理解できなかった。

 しかし、あれから30年あまり経った今、Be-1とそのプロジェクトを送り出した人々の慧眼ぶりに素直に敬服してしまう。

 前述したように、僕は自動車に“優れた機械であること”だけを求めていた。しかし、世の中はそれと同時に“魅力的な商品である”ことも本能的に求めるようになっていたのである。時代は変わったのだ。

 速く、効率的に走り、燃費や車内空間に優れていることは半ば当たり前で、それに加えて、今までと違った面白いデザインが施され、ファッションブティックのような店で買うことができて、できれば他人と違った限定仕様であってくれたら、なおうれしい。

 人々がクルマに求める要素が大きく変わり始めていた兆候を、Be-1は見事にすくい上げていた。その傾向は、現在まで続いている。フォルクスワーゲンのザ・ビートルやその前身のニュービートル、BMWのMINI、フィアットのチンクエチェントなどは、みんなBe-1の“後継車”と断言できるではないだろうか。

 3台はカタチを偉大なオリジナルに似せてはいるが、メカニズムは他モデルの流用である。スタイリングに必然性はない。コスプレだ。セルフサンプリングとも言える。

 3台に求められているのは、速さでも、燃費でも、広い車内でもない。姿カタチなのである。商品としてのクルマにとってデザインが最も重要であることを3台よりもはるか昔に証明したのがBe-1だった。

 1万台を瞬時に売り切ったBe-1だったが、最近ではほとんど見掛けなくなっていた。最後に見たのを思い出せないくらいだ。

 そんなBe-1に久々にお眼に掛かれたのは、東京・お台場で行われていたクラシックカーのイベントだった。改造もされず、きれいにオリジナル状態が保たれていた黄色いBe-1が出展されていた。

 そのBe-1のコンディションはとても良く、12年ほど掛けて少しづつレストアを続けてきたものだった。

 改めてオーナーさんに時間を作ってもらい、さらに詳しく話を聞くことができた。

 約束の日に訪れると、Be-1はイベントで見た時と同じようにピカピカに磨き上げられていた。

「私も新車で買いたかったのですが、間に合わず買えませんでした」

 それならばと、経営している電気工事会社のある隣の群馬県の日産ディーラーを訪れたところ、抽選が行われた。

「抽選が2回行われましたが、2回とも外れました。都道府県によって、抽選の有無があったようです」

 Be-1購入を諦め、その頃に乗っていたマツダ・ファミリアに乗り続けていた。その前には日産ローレルの車高を落としてボルトオンターボチャージャーを取り付け、峠道を走って楽しんでいたりした。モータースポーツライセンスを取得し、ジムカーナに出場したりもしていた。

 そのうちに仕事も忙しくなり、家庭も持つようになり、クルマはもっぱらミニバンのトヨタ・タウンエースや同ハイエース、同ウイッシュなどをファミリーカーとして乗り継いでいた。

「それでもBe-1のことは諦め切れずに、20年間ずっと思い続けていました。中古車も何台も検討しましたが、価格やコンディションや改造度合いなどで自分の好みにピタリと合うものと出会うことがありませんでした」

 ようやく念願叶ってこのBe-1を手に入れたのが2006年4月11日のことだった。ヤフーオークションに、開始価格3万円で出品されていたのだ。

 すぐに競りに参加した。

「他にも参加していた人がいましたが、その中のひとりが強者で、ずっと競り合ってきました」

 それでも入札し続け、最終的に9万2000円で競り落とした。

 20年も思い続けたBe-1のどこに魅力を感じているのか?

「やはり、デザインです。それまで、こんなカタチのクルマはありませんでしたから」

 Be-1は、その試作車が1985年の東京モーターショーに出品され、好評を博したことで市販化された。

「私もモーターショーで見ました。“こんなカタチのクルマが実際に売られるのなら、ぜひ買いたい”と願ったのを憶えていますよ」

 30年以上前のクルマ、それも限定生産されたものだから、パーツの入手が困難なことは覚悟していて、ヤフーオークションなどに出品されているのを見付けると、入手し、ストックしてきている。タイヤ付きのスペアホイールやキャンバストップの幌も確保してある。

「エンジンやサスペンションなどの機能パーツはマーチと共用しているので問題なく手に入ります。でも、ライト類や幌などは入手困難です」

 Be-1にはデザインの他にもう一つの魅力があることが所有してみてわかった。

「走る楽しみがあるんですよ。重量が680kgと軽いので、よく走ります。5速マニュアルトランスミッションとノンパワーのステアリングからはダイレクトな反応があって、運転が楽しいです」

 2年に一度の車検は業者に任せず、自分で必要な整備を施し、検査場に持ち込んで検査を受けている。

「検査場にいるベテランの納税係官に、“珍しくなりましたけど、きれいに乗られていますね”と言われています」

 僕と会ったように、各地のイベントに参加して、いろいろな人とBe-1について話すことが最近の大きな楽しみだ。

「子供たちが独立して、自由になる時間とお金も多少はできてきたので、それをBe-1に使っています」

 近くのツインリンクもてぎサーキットにスーパーGT選手権のレース観戦にも出掛けている。

 新車には興味がない。Be-1のように、入手が困難だった昔のクルマにこそ俄然、食指が動く。日産スカイラインGT-Rもそんなクルマだ。「ケンメリ」と呼ばれる2代目のスカイラインGT-R(KPGC110型)だ。1973年に197台だけ造られた。

 近くの道路で走っている姿を何度も見掛けたことから調べ始め、オーナー父子に会って、譲って欲しいと頼んでいる。

「高齢のオーナーが新車から大切にされてきたので、すぐに譲ってもらえるとは思っていません。挨拶を欠かさず、こちらの気持ちを訴え続け、コミュニケーションを持ち続ける必要があるでしょう。なにごとも、縁とタイミングが大切です」

 Be-1とケンメリGT-Rは、時代も方向性も異なる2台だ。

「でも、私の中では矛盾しません。希少なクルマを自分で維持しながら仲間とともに楽しんでいくという点では変わらないからです」

 子供が大学に進学するまでは、クルマとともに機械式腕時計のコレクションも趣味だった。

「進学費用のために、持っていたロレックス40本を全部売り払いました。子供たちのためには、それで良かったと思っています」

 酒も飲まず、ゴルフにも行かない。クルマこそが、これからの人生の大きな楽しみだ。Be-1と一緒に、できればケンメリGT-Rも自分の手で良い状態を維持できるようになれたらと願っている。僕もそう思う。昔のクルマは彼のような人に持っていてもらいたい。

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