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心地良さそうなBarにある“カニ目”。オースチン・ヒーレー スプライト・マーク1(1960年)

 このテキストノートは2020年にイギリス『TopGear』誌の香港版と台湾版と中国版に寄稿し、それぞれの中国語に翻訳された記事の日本語オリジナル原稿と画像です。

文・金子浩久、text/KANEKO Hirohisa
写真・田丸瑞穂 photo/TAMARU Mizuho (STUDIO Vertical)
Special thanks for TopGear Hong Kong http://www.topgearhk.com

 新型コロナウイルス感染騒動による、世界中の自動車メーカーの操業停止が止まらない。自動車もパーツを幅広く世界調達している製品だから、世界が平穏でないと1台も組み立てることができない。

 だから、現代ではそのクルマがどの国で最終的に組み立てられたかがあまり意味を成さなくなってきているが、昔は違った。国ごとの特徴が多彩で、それらがクルマに現れていた。なかでも、1960年代のイギリスには多くのブランドが存在し、それぞれ魅力的なクルマを造っていた。

 小型スポーツカーだけでも、たくさんを数えていた。MG、トライアンフ、ロータス、サンビーム、TVR、モーガン、マーコスなど、すぐにいくつも挙げることができる。それ以外にも、小規模なメーカーは数え切れないほど存在していた。中でも、オースチン・ヒーレー スプライト・マーク1は、その特徴的なルックスから日本でも人気が高い。

 ボンネット上に飛び出たヘッドライトが蟹の目のように見えることから、日本では「カニ目」と親しみを込めて呼ばれている。イギリスでは「カエル目」(frog eye)、アメリカでは「ムシ目」(bug eye)と呼ばれているらしい。

 バーを経営しているオーナーさんは、カニ目を26年間乗り続けている。

「以前も飲食店に勤務していていましたが、独立して自分のバーを構えたのと同じ年にカニ目も手に入れました」

 その前は、MGミジェットに乗っていた。ミジェットも同時代のイギリスの小型2シーター、オープンスポーツカーだ。ミジェットも気に入って乗っていたが、メカニズムのトラブルが絶えず、カニ目に乗り換えた。購入価格は200万円だった。

「ミニクーパーも好きなのですが、乗っている人が多いので止めました。他人と違うクルマに乗りたいですからね」

 以来、26年間ずっと乗り続けている。
 自宅を新築し、その一階にバーとガレージを造った。以前に開いていた店では食事も提供するレストランバースタイルだったが、ここは純粋に酒を楽しんでもらうためのショットバーに改めた。それが、8年前のことだった。
 接客カウンターの後ろの壁がガラス張りになっていて、カウンター席に座るとガレージに収まったカニ目を眺めることができる。

 ガレージからカニ目を出し、近くの河原を走った。その小ささ、低さに改めて驚かされる。小さなボディに、蟹や蛙や虫を思わせるヘッドライトがチョコンと前を向いている。誰だって頬が緩んでしまう。

 河原に停めて、エンジンを見せてもらった。驚いたことに、独立したエンジンフードがなく、エンジンフードもフェンダーも一体化したフロントカウル全体がレーシングカーのように開く。

 排気量948ccの4気筒エンジンがエンジンルーム内の中央に載せられている。サスペンションやステアリングシステムなどもシンプルなものが装備されている。パワーアシストや電子制御システムのようなものは組み込まれていない。クルマが動く必要最小限のメカニズムだけで構成されているから、地面がよく見える。

 屋根も、シンプルな造りのキャンバス製のものをボディに直接にリベットに止める。エンジンフードと同じように、トランクフードもない。2座席の後ろに、けっこう広いスペースは確保されているのだが、シートの後ろから手を伸ばして荷物を出し入れしなければならない。奥の方に転がってしまったものを取り出すのは難しいし、そこに置かれているスペアタイヤも出し入れは簡単ではなさそうだ。

 オーナーさんは整備を怠らず、カニ目を快調に走らせている。しかし、ボディのコンディションはある程度、自然な時間の経過に任せている。

 淡いブルーの塗装面にはヒビ割れが認められ、クロームメッキにはうっすらとサビも浮かんでいる。でも、それらでみすぼらしく見えてしまっているかと言うとそんなことはなく、反対だ。年輪であり、エイジングと呼ばれるべきもので、オーナーさんとの26年間を体現している。

 それでも、つい最近、トランスミッションにトラブルが発生した。スムーズにギアが入らなかったり、抜けなかったりしたのだ。整備を任せている工場に入れて、修理見積もりを待った。

「妻と相談して、修理に50万円以上掛かるようならば手放すことに決めました」

 しかし、幸いなことにトランスミッションは調整だけで治るとの見積もりで、金額も50万円の10分の1ほどで済んだ。

「もし、このクルマを手放すことになってしまったら、次は3人乗れるヴァンデンプラス・プリンセスにしようかと考えていました」

 ミニのメカニズムを用いながら、ミニよりもひと回り大きなボディを持つADO16シリーズの中でも、ヴァンデンプラス・プリンセスは豪華な内装を持つことで、このクルマも日本で人気だ。

「カニ目は自分も家族も気に入っていたし、お客さんや友人たちにも広く知れ渡っていましたから、乗り続けることができて良かったです」

 街では有名な存在だったので、乗り続けられて良かった。

「あっ、いけない! 自宅に戻って夕飯の支度をする時間になってしまう。撮影には、あとどれくらい必要ですか?」

 失礼しました。あと1カットで終わります。東京に通勤している妻が帰宅する前に、オーナーさんが高校2年生の長男との家族3人分の夕飯を作ることになっている。店に戻り、夕飯を済ませると次はバーの開店の準備だ。

 ウイスキーだけで約100種類を揃え、スコッチシングルモルトが多い。他の酒を併せれば、200種類のボトルが並んでいる。壁にはミステリー小説がシリーズごとに揃えて並べられ、1970年代や80年代の音楽LPのジャケットも飾られている。

 常連客のひとりがアマチュアのモデラーで、その作品がいくつも飾られている。カニ目やメルセデスベンツ300SL、ホンダS800などのクルマやヨット、大型客船など見事なものばかりだ。まるで家のリビングルームにいるような心地良さがある。

「カニ目だけでなく、私はとことんアナログ人間ですので」

 それにしても、3人家族で2人しか乗れないカニ目だけでは不便ではないだろうか?

「いいえ、そんなことはありません」

 休暇に家族旅行に良く出掛けるが、そのいう時には飛行機や新幹線で途中まで出掛け、そこからレンタカーを借りている。
 土曜日は仕事が休みになる妻とふたりでカニ目でランチを食べに行っている。長男と出掛けることもあるし、週に2、3度の食材の買い出しはカニ目で行っている。バーで出す酒の仕入れは問屋に配達させているが、時にはカニ目でシングルモルトウイスキーなどを仕入れに行くこともある。カニ目は、家族の一員のような存在なのだ。

「私にとってこのクルマはペットのようなもので、家族全員がファンですからね」

 古く、不便なカニ目はスポーツカーファンに珍重されているけれども、オーナーさんと家族にとってはファミリーカーなのである。

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金子浩久書店
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