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エンジンパワーの“粒子”が揃っていて、どちらも繊細で濃厚。爆発する様子が眼に見えるよう アルピナ ALPINA B9 3.5(1983)&B10 3.5(1986)

 このテキストノートはイギリス『TopGear』誌の香港版と台湾版と中国版に2016年に寄稿し、それぞれの中国語に翻訳された記事の日本語オリジナル原稿と画像です。文・金子浩久、text/KANEKO Hirohisa、写真・田丸瑞穂photo/TAMARU Mizuho (STUDIO VERTICAL)
Special thanks for TopGear Hong Kong
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 東京の世田谷区に「ベッカライ・ブロートハイム」というパン屋がある。ベッカライとドイツ語で表記しているように、この店はドイツのパンを作っていることで昔から有名だ。
 20年以上も前に、ドイツのパン屋のグループが日本へ研修旅行に来た際にこの店を訪れ、「今やドイツでさえも行われなくなった伝統的な手法によってパンが作られている」と驚かれたほどだ。
 フランスのパンが小麦と酵母と塩と水だけから作られるのに対して、ドイツのパンは小麦の代わりにライ麦が用いられる。濃い色に焼き上がり、酸味が強く、噛むほどに甘みが増していくのが特徴だ。吟味された素材を用い、手間が掛けられたブロートハイムのパンはどれも美味しい。

 久しぶりに訪れてみると、店舗は2倍以上の広さに拡充され、隣にカフェもできていた。土曜日の昼前だったので、客足が途絶えない。繁盛しているのは、以前と変わらない。ここのパンに魅せられて近所はもちろん、遠くからわざわざ買いに来る人も少なくないのもうなずける。
 主人のAさんも変わっていなかった。白髪が増えたのは僕も同じだ。コーヒーをいただきながら再会を喜び、話題はAさんの2台のアルピナに移った。以前から2台のアルピナを持っていたのだ。
「まだ乗っていますよ」
 1983年型のアルピナB9 3.5と1986年型のB10 3.5だ。
 BMWのエンジンとサスペンションをチューニングして性能を上げたのがアルピナというクルマだ。ドイツ圏に多く存在する「チューナー」ではなくて、1983年にドイツ自動車登録局に正式に登録された歴とした「自動車メーカー」である。BMW本社との連携のもとに製造され、BMWの保証も付く。
 アルピナは2015年に創業50周年を迎えたが、日本でアルピナの名前が広く知れ渡るようになったのは1980年代からだ。ヨーロッパのツーリングカーレースでBMWを用いたアルピナが大活躍する様子を、僕も当時の唯一の情報源である雑誌で見て知った。
 BMW1500や2002などをベースに造られたアルピナのレーシングカーのフロントウインドウの上縁には”ALPINA”のステッカーが貼られていたものだ。若き日のニキ・ラウダやジェイムズ・ハント、デレック・ベルなど後のF1ドライバーたちがアルピナに乗って勝利を重ねていった。
 1988年にモータースポーツ活動から撤退したアルピナはロードカーの生産に軸足を移した。サーキットを席巻したアルピナの造り出すクルマに期待は高まり、仕上がりは予想をはるかに上回る出来栄えだった。

 運転免許を取得してからの三菱自動車ファンだったAさんは、ギャランやランサーを乗り継いでいた。
「クルマ好きの兄と、”いつかはアルピナに乗れたらいいな”と憧れていました」
 今から30年以上も前のことをはっきりと憶えているのは、その憧れが強烈だったからだろう。その頃はBMWに限らず、日本ではヨーロッパ車が今よりもはるかに希少な存在だったから、高価で、乗っている人も少なかった。
「BMWにはずっと興味があって、2002tiiが欲しかったのですが、中古車でも高価で手が出ませんでした」
 そんなBMWをさらに高性能にしたアルピナは存在そのものが別格だった。当時、アルピナ各車には、ベースとしたBMWのおおよそ倍の価格が付けられており、B9 3.5は1285万円だった。

 以前は手元に置いていた2台のうちのB9 3.5は山の別荘に移されていた。春の連休に家族で行くことになっているというので、同行させてもらうことにした。
 B9 3.5とB10 3.5は、同じE28型の5シリーズボディを元に造られている。3.5リッターという排気量は共通ながら、直列6気筒エンジンのピストンの形状が異なっている。それによって圧縮比が異なり、10台のB10 3.5は11.0を超える高圧縮比型だ。
 もうひとつの違いは、B10 3.5はゲトラグ社製5速マニュアルトランスミッションを装備していて、それが1速が左手前に来る、いわゆるレーシングパターンを形成している点だ。
 B10 3.5にカメラマンの田丸さんと乗せてもらい、山を目指した。家族は別のクルマで友人たちを乗せてすでに出発している。
 レカロ製の快適でホールド性の高い助手席シートに座っていても、3.5リッター直列6気筒エンジンがパワフルであることが伝わって来る。メーターを見なくとも、周囲のクルマの速度やエンジンからの音、変速具合などによって現在の標準からしてもB10 3.5の加速の鋭さがうかがえる。
 上り勾配で前方のクルマを追い越すような時には、5速から4速にシフトダウンする。前述のように、左ハンドルのB10 3.5の5速マニュアルトランスミッションは1速が左手前にあるレーシングパターンだから、5速から4速は一直線に前方に押し出すだけで良いから素早い。4速に入ったと同時にクラッチがつなげられ、音量が高まると同時に背中を押されて加速が始まる。クォーッという心地良い排気音が車内に満たされていく。

 別荘は標高約1700メートルの高地にあった。国道から山の中に入っていった静かなところだ。一階がガレージと物置きで、2階と3階が別荘になっている。
 ガレージのシャッターを開けると、日曜大工道具やテーブル、積み重ねられたスペアタイヤなどの奥に、カバーを被せられ、バッテリーを外されたB10 3.5が収まっていた。
 母屋の天井が高く、開放感に溢れている。リビングに面した窓を開けるとそのままバルコニーに出られる。ウッドデッキが張られていて、ここで山々の稜線や緑を眺めながらバーベキューでもしたら、さぞや美味しいことだろう。
 ここに土地を買い、建物を建ててから21年になるという。夏は避暑に、冬はスキーを楽しみに来ている。
「もう30年ぐらい通っています。最初は、友人に勧めてこの下に別荘を建てさせました」
 しかし、最近では忙しくなって、来る日数も減り勝ちだ。店を大きくして、従業員も10名を超え、とても繁盛しているように僕らから見えても、以前よりもむしろ忙しくなっているという。パン作りの他にも、店の経営やパン屋組合の行事などで取られる時間も多い。
「本当は今頃は引退していて、ここでノンビリと過ごしているつもりだったんですよ。ハハハハハハッ」
 半分は冗談だというから、半分は本当の気持ちなのだろう。昨年は睡眠時間が4時間という多忙な日々が続いたこともあった。

 B9 3.5は、1987年に独立して店を構える以前に勤めていたパン屋の主人が乗っていたものを1989年に譲り受けたものだ。
「それまで乗っていたランサー・ターボ1800はヨーロッパ仕様の2.0リッターに改造してあり、とても速かったので、B9 3.5に初めて乗った時には”なんてトロいんだろう”って落胆したことを憶えています」
 しかし、乗っていくうちに印象はどんどん好転していった。
「ここのような、コーナーの連続する山道を走るとハンドリングが優れていることが体感できました」
 また、エンジンのレスポンスに優れ、パワーの盛り上がり方がドラマチックなところなどもすぐに体感できた。
「実用性の高さも気に入っています。B9にルーフキャリアを取り付けて、マウンテンバイクを4台運んでここへ通っていたこともありますよ」
 E28型の5シリーズのボディは大きく深いトランクを持っているから、そうしたことも可能だ。

 B9 3.5の実力に魅了されるようになると、今度はB10 3.5が気になっていった。圧縮比が高められたエンジンとレーシングパターンのギアボックスの組み合わせは、どんな走りをもたらすのか?
「B9はとても気に入っていましたが、B10との違いを知って、どうしても試してみたくなったのです」
 調べたところ、日本に輸入されたB10 3.5は35,6台であることが判明した。
「ほとんどが正規輸入元のニコルオートモビルズによって輸入されたもので、そのうち27,8台がオートマチックトランスミッション版であることがわかりました」
 望みのマニュアル版は10台もない。
「15年間、マニュアル版を探しました」
 ようやく探し当てた1台を購入して乗り較べてみると、B9 3.5とB10 3.5の違いは小さくなかった。
「B9はエンジンのトルクが太く、トランスミッションのギア比が違っていることもあって、3速ギアで低い速度域から相当に高い速度域までも走り切ってしまうような感じです」
 B9 3.5の最高出力が245馬力なのに対して、B10 3.5のそれは261馬力だ。
「それに対して、B10は高回転まで回して面白いエンジンですね」
 足回りやステアリングは共通しているから、2台のキャラクターの違いは専らエンジンの、それもチューニングの違いによる。

 ガレージからB9 3.5を出し、僕が運転するB10 3.5と連れ立って、ワインディングロードを走りに出掛けた。
 B10 3.5のシートに腰掛けると、立ち気味のフロントとサイドウインドガラスやステアリングホイールの取り付け角度などに時の流れを感じる。
 現代のクルマと違って、アイドリング時からエンジンのビートが明瞭に伝わって来る。シフトレバーを左手前に引き込む時の”節目”のようなものを押し込んで1速に入れる。クラッチをつなげると、うっかりしたことにエンジンをストールさせてしまった。ハイパワーを引き出してはいるが、アイドリング時だけはトルクが極端に細い。エンジンを掛け直し、アクセルペダルを少しだけ踏み込みながらクラッチをつなげて発進した。
 アシストのないステアリングがダイレクトに路面の凹凸を伝えてくる。冬の間の降雪で荒れてしまった路面の補修がまだ行われていないので、ところどころ舗装が剥がれていたりするから用心が必要だ。

 国道に出て少しづつペースを上げていくと、B10 3.5は活き活きとしてきた。エンジン回転を上げ、3500回転辺りを超えると、排気音も大きく、同時に音色も澄んでくる。気化されたガソリンと空気が混じり合った混合気に点火され、爆発する様子が眼に見えるようだ。パワーの粒子が揃っていて、とても細かい。”レスポンスが良い”と言っていたのは、このことか!
 まるで生きているようだ。最近のエンジンはもっとハイパワーでありながら燃費にも優れているけれども、こんなに豊かなニュアンスを感じるようなことはない。
 トランスミッションは2速の真下が3速だから、素早く変速できる。ギアの位置を探るようなことも必要ないから、レーシングパターンの効能を感じるのはシフトアップの時よりもむしろシフトダウンだ。ギア比もクロスしていて、エンジンが最もパワーを発揮している回転域をフルに活かすことができる。
 足回りも必要以上に引き締められておらず、適度なロールを伴っている。現代の高性能車よりも圧倒的に扁平率の低いタイヤが採用されていることにもよるが、スロットルワークとハンドルで繊細に探りながらコーナリングをしていくのは、現代のクルマでは望み得ないだろう。
 路肩にはまだ雪が残っていて、この辺りはまだ春の入り口に立っているだけだから、ワインディングロードには他のクルマも少ない。思う存分にアルピナを走らさせてもらった。
 B9 3.5もB10 3.5もスペックでは完全に現代のクルマに敵わないが、クルマから感じ取れる味わいがとても濃厚であることは誰も否定できない。

「この時代のアルピナが一番好きですね」
 運転させてもらって、僕もAさんの気持ちを共有することができた。
「この2台は速さだけではなくて、居住性や快適性などが高いレベルでバランスさせられていて、いま乗っても満足させられます」
 アルピナはBMWと歩調を合わせるかのようにビジネスを拡大し、2014年には年間に1700台を生産するまでに成長した。日本は主な輸出先のひとつで、約400台が販売されている。
「ただ移動するだけならば、クルマはミニバンでも軽自動車でも構わないでしょう。でも、走ることを楽しみたいのなら、自分の好きなクルマに乗るべきだと思います」
 それはクルマだけでなく、パンにも共通する話だと思う。ただ空腹を満たすためだけならば、どんなパンを食べようが関係ない。でも、パンそのものの味を楽しもうというのならば、好きなパンを食べたくなってくる。それは贅沢ということではなくて、生きることを楽しみ、生活を豊かにすることにつながる。
「ウチのお客さんの中にも、忙しい平日はスーパーやコンビニのパンで済ましていても、週末はゆっくりと美味しい食事を楽しみたいからウチのパンを買って下さる方もいらっしゃいます」

 柔軟な姿勢も大切だ。店ではドイツのパンだけでなく、フランスやイタリアのパンや日本生まれのあんパンやクリームパンも売っている。
「パンというのは決してパンだけで成立しているのではなく、その土地の食文化と気候風土に由来しています」
 クルマも一緒である。
「これからもドイツの伝統的なパンを中心に、美味しいパンを作っていきたいですね」
 忙しい日々は当分の間、まだ続きそうだ。



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