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幻に終わった力道山の相模湖サーキット計画

 第30回小学館ノンフィクション大賞を受賞した『力道山未亡人』(細田昌志)には、何か所も力道山が生前に神奈川県・相模湖畔の広大な土地にサーキットを建造しようとしていたことが書かれています。

 サーキットだけではなく、52万坪もの広大な土地にはゴルフ場や射撃場、スケートリンクや遊園地なども併設された総合レジャーランドが計画されていました。

 その話を、ずいぶん昔に「オートテクニック」や「GPX」などのモータースポーツ誌の編集長を務めていた山口正己さんから聞いたことを想い出しました。彼は相模湖町の出身で、父親や祖父、親族などの土地がこの計画の予定地となっていました。

 どちらかの編集部で、編集部員や僕のような部外者も何人かいたと思います。新聞紙大ぐらいの、サーキットのラフスケッチのようなものを前にして説明してくれました。コースの形状はアメリカタイプのオーバル型だったように憶えています。

 サーキットを造ろうとしたのは総合レジャーランドの施設のひとつとして、ビジネス的なモチベーションだったのだろうと想像できます。しかし、力道山はクルマ好きだったのではないかと思われる、アメリカ巡業時の8ミリフィルムをずいぶん前にテレビで見たことがあるのです。
 弟子の豊登と一緒にメルセデス・ベンツ300SLに乗ってアメリカを巡業しながら東から横断してきて、最後は船に載せて日本に運び、日本でも乗っていたとナレーションされていました。300SLはガルウイングのクーペで、アメリカで購入しました。アメリカのどこかの山の中の道をゆっくりと走るシーンを撮った映像では、右フェンダー後部を何かにブツけた跡が映されているのが妙なリアリティを醸し出していました。他のクルマとコンボイで横断したのかもしれませんが、いかにも破天荒な力道山らしいなと思いました。
 300SLは石原裕次郎も持っていて、俳優仲間と一緒に芸能誌のグラビアページで撮影されていました。昭和を代表する2大スターが同じスーパーカーを持っていたのも時代を表していますね。

 久しぶりに山口さんに電話を掛けてみました。それによると、自身の土地を運営会社であるリキ観光開発株式会社に譲渡した山口さんの叔父さんと力道山が並んだ写真があったこと、山口さんも含めた地元の人々が当時プロレス興業に招待され、東京の立川で行われた試合をみんなでバスで観に行ったことなどを教えてくれました。つまり、計画は予定通りに進んでいたのでした。

 しかし、力道山が1963年12月15日に突然の悲劇的な最期を迎えたことによって計画は頓挫してしまいます。その後に敷地は転売され別の会社が1972年に「相模湖ピクニックランド」として開園し、現在は「さがみ湖リゾートプレジャーフォレスト」として営業されています。結局、ゴルフ場やサーキットなどは造られませんでした。

 その経緯なども含め、結婚後わずか半年で未亡人となった田中敬子さんの半生と数々のドラマがこの本には詳しく書かれていています。プロレスや力道山に特別の興味のない読者にも、力道山を軸にした昭和の裏と表の歴史の一段面と東京の地理をとても面白く読めるノンフィクション作品に仕上がっています。それは、前作『沢村 忠に真空を飛ばせた男 昭和のプロモーター野口 修 評伝』でも変わりませんでした。

 著者はPODCASTでも自身の番組「細田昌志の時空旅行RADIO」でもホストを務めており、取材の際のインタビューぶりが想像されるゲストとの丁寧な会話が聞きどころとなっています。こちらもお勧めです。

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