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#04_眼鏡のプロが惚れ込んだ、「職人」という宝。

1990年代の後半に差しかかると、眼鏡業界を取り巻く状況は大きく変わろうとしていました。
バブル経済崩壊の余波が業界にも押し寄せ、これまでライセンスビジネスで大きな利益を得ていた商社やメーカーは苦境に立たされ、生産状況もコストの安い中国での生産が急増し、鯖江を拠点とする下請け工場や職人たちも徐々に仕事を奪われていきました。

産地に重い暗雲が立ち込め始めたある日、先細る仕事に廃業を覚悟した一人の職人が金子のもとを訪れます。
「自分の作っている眼鏡を見てくださらんかのぉ。それで気にいってもらえたら、いっぺん仕事をやらせてくれんやろうか。」

その職人の名は、山本泰八郎。

彼もまた、鯖江の停滞してゆく眼鏡産業のあおりをまともに受け、仕事を奪われた多くの職人のひとりでした。
この出会いが、その後の金子眼鏡に何よりも代えがたい唯一無二の価値を与えることになります。

山本泰八郎は1942(昭和17)年に鯖江市で生まれました。中学卒業と同時に小さな眼鏡工場の親方のもとに弟子入りし、40年にわたって黙々とセルロイドフレームの眼鏡製造技術を磨いてきた生粋の眼鏡職人でした。
この90年代後期、眼鏡市場で需要を伸ばしていたのは、大量生産のプラスチックフレーム(アセテート素材)。しかも、細くカラフルなフレームが人気を集めていた時代だったため、彼が十八番としていたセルロイドフレームは時代遅れとされ、ニーズは底を打っていました。

しかし金子は、廃業を覚悟し背水の陣で自分のもとを訪れた山本の手づくりの眼鏡を見て、これまで感じたことのない感動と衝撃を味わいます。

本物の眼鏡は、使う人の心と一体となる。

決して洗練された形ではない。しかしその眼鏡には繊細で卓越した技術とともに、作り手の人格と想いが込められた強烈な個性が宿っていました。形やディテールの違いなどではない魅力、デザインだけでは得られない価値をここに発見した瞬間でした。

心底惚れ込んだ金子は自らがデザインを行い、山本泰八郎にしか出せない個性を残した新たなブランドを立ち上げようと決意します。
これまで山本に限らず多くの眼鏡職人は本人が表に出ることはなく、ユーザーからは見えないところでメーカーを支える裏方の存在でした。山本自身は、移り変わる時代とともに、セルロイド職人も消えゆこうとしているなかで、愚直なまでに変わらず自分の仕事をまっとうしてきた人物。

金子は、その山本泰八郎の名と存在を日の当たる場所へフックアップすることで、その個性を浮き彫りにしようと考えました。
本物の技術力と魂を震わせるような魅力をもった、鯖江の名もなき職人の存在をブランド名とともに刻みこむ。こうして眼鏡業界においていまだ前例のないブランド『泰八郎謹製』が生まれます。

同時に、サンプラチナ職人・山崎恒則によるブランド『恒眸作』も立ち上げ、数ヶ月後にはこの二人の職人が手がけた眼鏡が、店頭の片隅にひっそりと並びました。インターネットもSNSもまだまだ盛んではない時代。しかし人々がその存在と魅力に気がつくまであまり時間を要しませんでした。真っ先に好意的な反応を示したのは展示会や金子眼鏡の店頭でこの商品を発見した、ファッション界隈やメディア界隈などトレンドの最前線にいた人たち。

絶大な影響力を持つ彼らの口コミの広がりと、雑誌などの媒体露出によって一般の若者層に人気の火がつき、やがて中年層から年配層にまで噂と情報が浸透。気がつけば、年代と性別の垣根を越えて高い評価を得るまでの商品となり、「職人眼鏡」はその後あらゆるところに影響を与える業界の大きな潮流へとなっていきました。

さらに2002(平成14)年には『小竹長兵衛作』『井戸多美男作』『佐々木與市作』の3ブランドが加わりました。いずれの職人も類い稀な技術を持ちながら、山本泰八郎と同様に崖っぷちの状態で鯖江の眼鏡づくりをつないできた男たちです。産地と技術を守り、光をあてたい。金子のその想いは、この「眼鏡職人ブランド」として形となり、確立されました。

【本物の眼鏡は、使う人の心と一体となる。】

本物の職人がつくった本物の眼鏡に惚れ込み、その力を信じて疑わなかった金子が、このブランドを立ち上げるときに繰り返し胸の中で反芻した言葉です。多くを語らずともその唯一無二の魅力を発するこれらの眼鏡は、今もなお人々の心をつかんで離しません。


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