ミンナのシゴト代表:兼子文晴【国士舘柔道部】日本一のマネジャーの道のり・小学校~中学編
兼子文晴の無謀な挑戦
こんにちは兼子文晴です。
今回は中学・高校時代の私のことを書こうかと思いますのでお時間のある時に読んで下さい。
”中学受験”
私、兼子文晴は大田区羽田出身である。
小学校時代は母親がフェリス女学院出身という事もあり、小学校5年生から中学受験に向けて塾に通う日々。つまり【教育かーちゃん】のもとで育ったのだ。しかし私はあまり勉強が得意でなかった。。。
正直、塾なん行きたくないと思っていた。
しかし一つ上の姉も同じ様に塾に通い、中学受験をし見事、合格。中学から私立の学校に通っていたのだ。
姉は頭が良かった。
しかし私はあまり勉強が出来ない。両親・親戚一同は姉に期待を膨らませ皆、姉を可愛がっていた。
しかし私はあまり頭が良くない。。。正直、あの頃に自分の中に「自分は頭が悪いから駄目な人間だ。だからみんな相手にしてくれない」と言う思いが芽生えたのだと感じる。
しかし私も何とか勉強をし、とうとう進路を決める頃になっていた。
そんな中で、私の偏差値では行ける学校はあまり無かった。。。
そんな中、一つだけキラリと心に引っかかる学校があった。
【国士舘中学校】だ。
国士舘ってあの頃は偏差値は底辺であったが知らない人は居ないくらい有名な学校だった。悪い意味で。
国士舘に行った人の就職先は警察官か、消防士か、ヤ●ザだと言う学校だった。
しかし何か光るものを感じ、調べていたら【柔道】が有名で日本一に輝いている。これしか無い!!と感じ。国士舘に合格し柔道部に入れば【日本一】になれるんだと気づいた。
その頃の私は受験生になって運動もしなかったので体重が一気に増えデブだった私には、もう「自分はこの体型なら柔道をやるしか無い」「柔道家の体型だ」と勝手に妄想し、国士舘しか見えなくなっていた。
当時の中学受験は1次試験?2試験?って言い方だったかな?受験のチャンスが1つの学校で2回あった。
もう国士舘しか考えていなかった私は1次試験に本気で望んだ。
結果・・・「不合格」・・・
物凄く悔しくて、悔しくて。。。母親と品川の駅でカレー食べながら悔し泣きしていたのを今でも思い出す。
しかし、そんな泣いていてもしかたない。このまま落ちれば地元の中学校に通い狭い世界の中で行きていく人生になってしまうと感じ、2次試験にチャレンジ。必死の思いで2次試験当日まで勉強しついに合格発表の日。
私は小学校があったので合格発表は見に行けず、ハラハラしながら小学校でで帰って母親に結果を聞くのを待ちわびていた。あの時の気持は期待3/1、怖さ3/2だった。すると担任の先生が授業中にいきなり来て「ちょっと文。良いかな??」と呼ばれた。これは完全に合否の呼び出しだと思い、もう心臓バクバク。冷や汗たらたらで担任の先生のもとに向かう。
先生も神妙な顔してるし。これはヤバいぞと思っていたら、いきなり先生が満面の笑みで笑って「おめでとう!!!国士舘中学校に合格だ!!」って言われ本気で嬉しかったのを思い出す。あの時は本当に嬉しかった。心から嬉しかった。
そう言えば今、この記事を書いている2021年2月23日だが先日、長男の剛毅が【国士舘高等学校】に見事合格をした。合格発表後に興奮して私のスマホに電話を掛けてきたのと同じ気持ちなんだろうな。
息子よ親父も同じ道を歩んでるんだぞ。これからもっと楽しい世界が待ってるから頑張れ!!
そんなこんなで無事に本命、国士舘中学校に入学が出来たのである。
国士舘中学入学
入学してみたら・・・マジびびる・・・
期待に胸を膨らませ「いざ!国士舘中学へ!!」と入学式。
の、瞬間ビビる。。。
【ジャバラ】と言う国士舘風学ランを着た高校生が車の屋根でジャンプをしている。。。そして先生らしき人が怒って走ってくる。。。
。。。
。。
。
これは不味い所に来てしまった。とビビる。
それをそそくさと見て見ぬ振りをして教室へ。何組だったか覚えてないが無事に到着。到着して目に入るのが体のデカい【柔道部】の同級生達。またビビる。
そして担任教師の登場。これまた体育の先生。いかつい。
と、ビビりながら入学式を終えて次の日は始業式。
正直、始めての所という事もありビビっていた。周りの同級生もそう思っていたのかな?と今は思う。
その数日後にどの部活に入るかを決めなくてはいけない。
「よし!柔道部!!」と考えたのだがまたビビる。
柔道部の柔道部は聞いてみたら皆、全国小学生チャンピョンとか東北チャンピョンとか九州チャンピョンとか。誰一人、無経験で柔道部に入ろうと考える頭のおかしい人間は居なかった。
そして色々と考えた挙句、逃げてしまい柔道部には入らずにマイコンピューター部。通称マイコン部に入部してしまった。。。
でも数日たってやはり柔道がしたいと思い、監督の先生の所に直談判に行く。先生に「兼子。お前大丈夫か?」と聞かれ、内心ビビっていたが「はい!大丈夫です!」と断言。すると先生が「よし!わかった。やってみろ。」という事で晴れて憧れの柔道部に入部できたのであった。
そして私と同時にもう一人頭のおかしい柔道無経験の同級生が柔道部に入部する事になった。
柔道部入部
その翌日から練習開始。しかし柔道着も持っていなかったので借りて練習を始める。まずは受身の練習から。横受身・後ろ受身とバチンバチン畳を叩きながら同級生のもう一人と行う。
その後、色々と少しずつ技とかも教えてもらい少しずつだが柔道部らしくなってくる。全然弱いけど。
しかし私と同級生のもう一人は「通い」の柔道部だったのである時間になると家に帰らしてくれる。他の柔道部は全員「寮」に下宿しているのでまだまだ練習をしていくのだ。
やはり全然、実力もあがりませんよね。そもそも他の同級生とは経験もセンスも違うのだから。正直言って中学の事はあまり覚えて居ないのが実際の所。でも一つ覚えているのが2年生になった時。ついに後輩が出来たのだ。
二年生になった私は1年生の体操係に選ばれて、1年生に体操を教える。
その中で愛想の良い、物凄くなまった後輩が色々と話かけて来た。「なんだよ。生意気なやつだな。」と思いながら体操を教えていたその人物こそ、かの有名ななアテネオリンピック金メダリストの【鈴木桂治】だった。
あの「茨城訛り」は頭に残っている。桂治との出会いはそこから始まった。
そして時は経ち中学3年生の時。監督に呼ばれ「なんだ?」と思っていたら「兼子。お前、高校から寮に入らんか?」と言われメチャクチャ嬉しかった。即答で「はい!入ります!」と返答しワクワクしながら自宅に帰る。
そして母親に「俺、高校から寮に入るから!宜しく!」と一言。
母親に「あんたはなんで何も相談しないで決めてくるの!!」ともちろん怒られる。でも自分で決めたこと、やりたかった事、寮に入るのは憧れだったから入寮を決めワクワクして卒業式を迎える事になった。
まとめ
書いてって思うのだが、最初はあんなにビビっていたのに中学3年生にもなると精神的に鍛えられたと言うか、日本一の柔道部が日常になってたんでしょうね。
そして何よりも【日本一になりたい】と言う目標が出来たのがこの中学時代からである。
まだボヤっとした目標ではあったがここからその思いが始まっている。
姉に劣等感を感じ自信の無い、自分は出来ない子と思っていた自分が成長したんだと思います。ビビらずに自分の決めた道に進み、あの環境に自分を追い込んだ事は今の自信に繋がっていると感じています。
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