「青森でりんごが盛んになった理由はある社会問題を解決するためだった」という話
こんにちは、お金が入るでかねいりです。
私は出身が青森県なのですが、「青森県と言えば何を連想しますか?」と聞くと、「りんご」と答えらえる方が多い印象です。
たしかに青森県はりんごの収穫量が多いイメージがありますよね。
そこで今日は、なぜ青森県でりんごが盛んになったのか調べて考えたことをお伝えできればと思います。
■青森県のりんごの収穫量
青森県は、りんごの収穫量が日本一。
日本全体の約60%は青森県でつくられています。
しかも、調べてみると、1951年から2023年まで73年間連続で日本一。日本の中で圧倒的な存在感ですね。
■青森県にりんごが栽培されるようになったきっかけ
日本にりんごが栽培されるようになったきっかけは、明治政府の富国強兵の経済政策の一環だった農地開拓でした。
そこで、明治政府は、多くの苗木を海外から輸入し、苗木を全国に配布し、日本に合う作物の研究を行っていました。その中のひとつにりんごの苗木がありました。
全国に配布されたのにもかかわらず、なぜ青森が特に盛んになったのでしょうか?
そのひとつの理由が、気候でした。
明治政府がりんごを全国に普及させようと研究している中で、りんごは比較的冷涼な地域に適していることがわかりました。冷害でお米が実らない年でも立派に実をつけることができ、寒冷地では重要な作物となりました。
しかし、青森でりんごが普及した理由は他にもありました。というよりもむしろ次の理由が青森でりんごが盛んになった大きな要因になっていました。
その要因は何かというと、りんごを育てる担い手の存在です。
適した土地があったとしても、それを育てる人がいなければ、りんごの収穫量を増やすことはできません。
では、担い手(人)の問題をどう解決したのでしょうか?
ここにはある歴史が大きく影響していました。
■ある階級の失業が社会問題に
ある歴史とは明治維新です。
明治維新以後、新政府は廃藩置県を断行し、その結果、江戸幕府の下部行政組織であった藩がなくなりました。
そのことにより、藩から給与が支払われていた武士は収入が途絶え、実質、武士の階級が消滅することになりました。
藩は年貢によって収入を得ていましたが、新政府が実行した地租改正により、農民に土地の所有を認めるとともに、農地の所有者から国が直接、税を回収する仕組みに変わりました。
そうしたことから新政府は、武士へ商業や農業への転身を奨励しましたが、うまく進みませんでした。
新政府に対する武士の不満が高まり、各地で反乱が勃発。職を失った武士への処遇が大きな社会問題となっていました。
そうした中で、元武士で青森県庁で勤めていた菊池楯衛(たてえ)氏が動き出します。
菊池氏は、雪深い青森において貯蔵できる食料がないかと考えた際に、政府の文書から「西洋のりんごは長期の貯蔵が可能」ということを知り、西洋のりんごの研究を始めました。そこで比較的冷涼な地域に適していることがわかり、青森で栽培しようと考えました。
そして当時、廃藩置県によって仕事を失っていた多くの藩の武士に対して、りんごの苗を無償で提供。りんごを育てて、販売することで生計をたてていくことを支援したのです。
その結果、多くのりんご農家が青森に誕生し、現在につながっているということだったのです。言い換えれば、多くの失業者を抱えてた県の社会問題を解決したいという想いが、青森でりんごが盛んになるということにつながったという話だったのです。
菊池氏については、もうひとつ今につながる話があります。りんごの苗木の研究をしていた彼は、桜と出会います。廃藩置県によってお役御免となっていた荒廃した弘前城。再び活気を取り戻したいという想いから城跡に1000本ものソメイヨシノを植えたと言われています。それが、今の弘前城の桜まつりにつながっているということでした。
外部環境が大きく変化する中で、自組織の内部環境の状況を冷静に見極め、何が最善の策なのかを考えた菊池氏の手腕は、今の企業の経営に示唆に富むものだと感じました。
青森にこのような方がいたということを誇りに思いました。