「自己の不可能性」の理解の重要性

今、自分がここにいるのは、あらゆる選択の連続の中で存在してきた。
全ての選択を同じにはならなく、その違いから、自動的に個性が生まれる。

これは、逆に言えば、選択したもの以外を、環境的、構造的、タイミング的に“それしか選択できなかった“とも言える。

自分的にはそれしか選択肢がないように見えても、
本当は知らない範囲には数え切れないほどの選択肢がある。

その時、その場では、それしかないと思っても。

その連続の選択が人生であり、その中での経験から生まれるものが個性と呼ばれるものなんだろう。

となると、その人の特徴を作り上げてきたものは可能性(起きたことも起きてないことも含む全て)ではなく、不可能性(起きたことだけ)であり、その不可能性を深く理解することが、個々の未来を見ることに繋がるのではないだろうか。

歴史学の研究も、基本的にこのスタンスがあると思う。

歴史を年号や出来事を、へー、と思うだけでなぞるのではそこまで面白くはない。
構造的に、環境的に、タイミング的に、なぜ〇〇は、その選択をするしかなかったのかという不可能性を明らかにすることで、現代で何が起きているのか、未来で何が起きるのかを考えることを可能にするのが歴史学の面白さだと思う。

リベラルアーツ的思考に歴史が欠かせないのはそういうことだろう。

自己の不可能性を深く理解し、実感する時、自分を形作る構造や環境の理解も同時に生まれており、それらの理解を深めることは、それらの不可能性を理解することでもある。

この定義は少し乱暴だと自覚しているが、あえてするならば、
自然とは、不可能性であり、科学とは、不可能性への挑戦である。

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