-今日起きたちょっとしたイイ事-
プロフィールにもあるように自分は中学生にサッカーの指導を行っている指導者という立場を務めさせてもらっている。
この指導を初めてもう半年とちょっとが経つ。
現在大学は春休みで、この期間もできる限り指導の方に赴いているといった現状だ。
自分的にはこの半年とちょっとはとても充実していると思ったし、感覚的な側面からもそう捉えていた。
ただ、今日中学の後輩だった子からの一言である種の壁にぶつかった。
「なんか、クールぶってる」って。
言われた瞬間は少し笑ったし、最初はどういう意味で言ったかも想像がつかなかった。
あと「意外と座っている事が多い」って事も伝えられた。
このことに関してはたまたまその時を見ているって可能性もあって自分でも少し納得はいかなかったけれど、こういう客観的な視点をもらえる事は自分は嬉しい。だから、納得はしてないけど理解はしたって感じだ。
それで、さっきの「なんか、クールぶってる」っていう事の真理を後輩なりに伝えてくれたんだけど、それがまたパンチの聞いた内容で…。
内容は自分の中にしまっておこうかな。ただ、その内容は自分が指導者という立場にいる以上考え直さないといけないというきっかけをくれる内容だった。現に、今日残りの時間はその事について考える時間に使った。このnoteも然り。
内容を伏せて言及すると、「クールぶっている」っていうのは思った事を言っていないとか自分がその時発している言葉が後輩にとってもっとこういう言葉をかけたほうが良いと感じていることっぽいニュアンス。後輩も自分のこの「クールぶっている」って言葉が適切かどうかはわからないって言っていたけれど、多分的を得ている。多分っていうか確実に。
で、何がそんなに「クールぶっている」、「カッコつけている」ように見せているのか或いはそのように見せる行動になってしまっているのか、自分なりにマインドマップを書いて整理をしてみた。(恥ずかしいのでマインドマップは載せません!笑)
整理した結果、見えてきた原因は自分の指導者としての大事にしている事が原因だった(恐らく)。
自分が大事にしてるのは”自主性”という言葉だ。
一見すると「ええやん」ってなると思う。実際、サッカーに”自主性”は必要だと思うし、考えた末の今でもこれが大事であるということに変わりはない。
じゃあ何が問題だったのか。
それは”自主性”求めすぎるが故の過程の欠如と指導を極力しないという2つ。
①-過程の欠如-
過程の欠如は簡単に言うと、ただ単に”自主性”が大事=それをそのまま突きつけるということ。
ここではその過程がなかった。
どんな過程か、それは[①一定の型を提供する→②一定の型を理解するために生徒の引き出しを多くする→③そこから自主性であったり、個性を重んじる]という過程だ。
”自主性”を重んじるにしても一定の型が必要であった。「いや、それはそうでしょ、当たり前やん」って言うと思う。確かにその通り。その通り過ぎて何も言い返す言葉が見当たらない。ただ、自分が大事にしていた言葉や考えを再構築するっていうのは意外と勇気がいるし、何より自分が大事にしていたものを一回否定することにもなる。それって本当に難しい。だから、この半年間とちょっとで考えることすらもしなかったのだと思う。怖かったから。先の事(結果)を見すぎて足元が全然見えてなかった。
灯台下暗しとはまさにこの事だ。
そして何よりこの過程において重要なのは自主性に持ってくる前の②の過程だ。そこで私達指導者はしつこく、細かく、多くの適切な指導をするべきなのだ。そこでの指導が彼ら生徒、選手の引き出しの原点になるのだから。そして最終的にそれらを駆使して自分で考えたり、個性を上乗せしたりとかっていう”自主性”の話になってくる。
②-指導を極力しない-
この②はさっきの①ともつながってくる話。
さっきの過程の欠如の内容部分の話になるが、極論生徒たちで練習が完結することが理想だ。私達指導者は最低限のものを提供し、生徒がそれを受け取って自身の成長へと繋げる。たださっきも言ったように現実的に考えれば、それはある種不可能な話で、中学生であれば尚更だ。だからこそ、一定の型が必要だと..そういう話だった。後輩に指摘される前の自分はいわゆる理想だけが先行していたという事になる。
そして、それに通じて出てきたのがこの自主性を重んじるがあまりの弊害、指導を極力しないということだ。さっきも言ったように、私は理想が先行していた。だから、言いたいことはあるけどそれは自分たち(ここで言う生徒たち)で見つけるべきだと考えていたのだ。だから、こちらも指導者として最低限のものは供給するけどそれ以上は...という今考えれば謎の線引をしていた。
ここで大事なのは
言うべき事はしっかりと言う
ということ。
答えは実にシンプル且つ明解だった。
言わなければわからないし、ましてや中学生なのだから最初は”自主性”もくそもない。ここは私達指導者が歩み寄って、彼らと向き合うべきだったのだ。
彼らに対する申し訳無さと理想ばかりが先行していた自分に腹が立つ。
また、この指導を極力しないというのには一つのあきらめ思考があるのだとマインドマップを見て思った。あきらめ思考つまり、これ以上言っても...的なやつね。多分座っている事、見ている事が多いというのはこの思考に陥っていたからだと振り返って思う。ただ考えてみれば、まだ半年とちょっとしか見てないのにそれだけでというのは時期尚早だ。私は危うく彼らのサッカー人生を踏み躙るところだった。はっきり言って、指導者としては未熟も良いところだ。スタートラインにすら立てていなかった。
私は彼らともっと向き合うべきで、根気よくしつこく適切に指導を行わなければならないのだ。その責任感と意義をもう一度確かめなければならない。
あと、これは少し余談的にはなるが、私は正直怒鳴るとかそういう怒り方は好きじゃない。ただ指導の最中に時に厳しく言うことも必要になってくる。それが適切な指導であれば。だから私は怒鳴らないで怒る事を意識して、彼らに真剣に理解を求めたいと思う。やり方はまだ定まってはいなけれど、自分にとってはこれが最善だと今のところは思う。その中で違うのならまた立ち止まって考える。恐らく指導って言うのは進んで止まってを繰り返して磨きがかかってくるのだろう。
話を戻そう。
私は”自主性”という言葉にあやかって指導を最低限にしたり、時に見ることに徹したりと色々やった。だけどそれは恐らく大半が失敗だった。そしてその行動が後輩が指摘してくれた「クールぶってる」・「意外と座っている事が多い」ってやつだろう。自分なりに考えて”自主性”を重んじていたけれどそれが足枷になっていたのだ。
それに気付かせてくれた後輩には感謝してもしきれない。
ありがとう
彼がこの記事を見てくれているかはわからないが、今後は指導という行動で変化を示していければ良いかな。急に「明日から変わります!」なんてのは口が裂けても言えないけれど、「明日から変わる努力をしていきます」と言う事はできる。徐々に徐々に..それが自分を成長させてくれると信じて。
これが今日の私の身に行ったちょっとしたイイ事だ。