韓国との出会い
今日韓国では、独立運動記念日。
8月15日の光復節(終戦記念日)同様、昔は日本語を話すことさえ躊躇われた日でもありました。
こんな日だからこそ.....
2015年10月に慶尚北道 漆谷郡主催の歴史文化ストーリーテーリング全国公募展で、日本人初優秀賞を頂いたエッセイをアップしておきます。
「近くて遠い国」ではありますが、2重国籍を持つ子どもたち始め.....
アジアそして、世界の子どもたちのために.....
世界がより希望的な関係性を構築できるよう、そのためのお手伝いに、少しでもなれたら幸いです。
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遂に私は、今回 多富洞(タブドン)・倭館(ウェガン)・浦項(ポハン)地域を通して、20年間出会うことができなかった想像を絶するほど深い韓国と出会えた。
「 多富洞(タブドン)に行こう」と決心したのは、今年の5月初めであった。
それはその前日、ソウルの戦争記念館の最後に「6.25戦争室3」を見ていたたまれない怒りを覚え、じっとしていられなくなったからである。
私は韓国に通算20年居住している、日本人である。
若い頃、日本の建前文化にうんざりし、脱日本計画としてイギリス渡航を考えていた時に、あるきっかけで韓国人の夫と出会い結婚した。結婚する前、夫の家族からの反対を受け、初めて韓国の歴史を図書館でしっかり学ぶことになる。
その時出会った反日思想の本によって、私の渡韓目的が明確になったことを覚えている。「自分を通して韓国の人たちの反日感情を少しでも緩和し、解消させることができたら。」
そして私は日本という国を背負いながら、韓国に来たのであった。
韓国生活が始まり、実際に義理の父母と生活する中で、沖縄に強制出兵させられた義理の父からこんな言葉が漏れた。
「日本人だって良い人がいたよ。逆に韓国人に悪いやつもいた。みんな同じ人間なんだよ。」と。
また義理の母からも、こんな言葉が漏れたことがある。
「日帝時代は治安も良かった。あの貯水池や鉄道も、日本人が作ったんだ。日本人が作ったものは、しっかりしていて壊れない。あの時、日本になってしまえば良かったのに。」
私は大変驚いた。つまり義理の父母が私たちの結婚に反対したのは、私が日本人であることが理由なのではなく、ご自分達が選んだ嫁ではなかったからだったのだ。
そんな義理の父母や夫からたくさんの愛を受けて、私の韓国生活はとても恵まれていた。
しかし一般生活の中で、日本人が韓国で生活するということはそんなに簡単なことではない。
特に3月1日(独立運動3・1節)と8月15日(光復節)は、日本語を話してはいけない日として毎年気を付けていたこともある。
また日本語講師の頃は、学生たちが日本の植民地時代のことで意見が真っ二つに分かれ、学生同士激しい討論になって授業が中断し、家に帰って泣くこともあった。
反日問題が、自分一人だけの問題ならなんとでもなる。
5年間日本での生活を終え、帰国した娘が小学校5年生の時に受けたいじめは、たいへん陰湿だった。その時テレビでは、反日ドラマ「野人時代」が流行っていた頃だと思う。
また下の息子が幼稚園で、ユ・グワンスン(16歳の独立運動家)の偉人伝を学んできた時「なぜお母さんは日本人なの?イギリス人やフィリピン人の方が良かったに。」と言いながら、友達から攻められたことを聞いた時は、とても辛かった。
一方こんな経験もある。
韓国に初めて来た時、いろいろな韓国人から「韓国のどこに行ってみたいか」と聞かれると、私はいつも「扶余(プヨ)に行きたい」と答えていた。何故か観光地である釜山(プサン)や慶州(キョンジュ)には興味を持たず、扶余(プヨ)だったのだ。しかし行く機会は、なかなか無かった。
あれは、韓国での生活が10年ほど経った頃のことだ。近所のおばさんたちが子どもの教育のため扶余(プヨ)と華城(ファソン)に、観光バス一台借りて行くことになったので、遂に私も息子を連れて行くことになった。
バスがその地域に近づくと山がなだらかで、慶北(キョンボク)地域よりも気が柔らかい。そこは、どことなく日本を感じさせた。
そして百済博物館に入り昔の百済の村の模型をみた時、全身鳥肌が立った。
「あぁ、やっと帰ってきた!!」それは、無意識の自分がそう思ったらしい。
前世というものがあるならば何やら私はその時代、日本に流され百済の村を懐かしがっていた者の一人だったようだ。
「だから私は韓国に嫁に来て、今こうして韓国を愛し生活しているのだ。」と、つくづく感じたものだった。
私は現在、大邱(テグ)市壽城(スソン)区に住んでいる。
車で少し行くと鹿洞(ノクトン)書院といって、豊臣秀吉の時代に文禄・慶長の役に出兵してきた沙也加という将軍が、この国を選択し帰化して豊臣軍と戦ったキム・チュンソン将軍を祭る場所がある。
この将軍はどんな思いで韓半島を愛し、帰化を選択して、率先して当時の日本軍と戦ったのだろうか。
また家の近所には、壽城(スソン)池がある。その池は日本帝国時代総督府に直談判し、自分の私財を投げうった水崎林太郎氏が、地元の農民達と協力し合って造った池だ。
水崎氏は「この池が見える所に、韓国式のお墓を立ててそこに眠りたい。」という遺言通りに、池のほとりに永眠されている。
そんな水崎林太郎氏の存在を知ったのは、今から6年前のことであった。
その時私はもう一度、肝に銘じたことがある。
「この水崎氏のように、ここに永眠したいといえるほど、この韓国の地を愛しきったといえる場所を作りたい!」と。
こうして振り返ってみると、私はたいへん恵まれた時代に、たいへん恵まれた場所で、大好きな韓国との出会いを深めている。
それはすべて、歴史上多くの先人たちの苦労の土台があったからこそだと思う。その先人たちがいてこそ、今ここに、こうして存在することができる。
そんな思いを持っていた私にとって、ソウルの戦争記念館の展示は若干の違和感として感じられたのだ。
それは記念館の最後にある「6.25戦争室3」が、「UN軍のおかげで、今の韓国が存在する。」と強く主張しているように感じたからである。
確かにあの時、マッカーサーの仁川上陸作戦がなかったら、そして63か国からの参戦及び多くの支援がなかったら、今の韓国は無かったかもしれない。
しかしそのUN軍の下、愛する祖国のために命を懸けて戦った国軍始め、多くの韓国国民の犠牲はどうなるのか。
「今の韓国が存在するのは、愛する祖国を守った英霊その他多くの韓国国民のおかげであり、それを支援し一緒に戦ってくれたUN軍もいた。」のではないだろうか。
その時「民族の誇り」や「民族主義」「国」という概念が、当然のように存在している私の固定観念が揺らいだ。
では、私が今まで出会った韓国は、本当の韓国といえるのだろうか。
結局それは、あくまでも環境から与えられた「受動的」な韓国との出会いであって、自らが積極的に出会っていった「能動的」な韓国との出会いではなかったのだ。
そんな韓国を私は「愛している」と、たやすく言えるのだろうか。
愛されるから愛す。そんな少女漫画のような出会いなんて、反吐(へど)が出る。
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拙い文章を読んで頂いて、ありがとうございました。 できればいつか、各国・各地域の地理を中心とした歴史をわかりやすく「絵本」に表現したい!と思ってます。皆さんのご支援は、絵本のステキな1ページとなるでしょう。ありがとうございます♡