今の私が私である訳。例えば、朝鮮近代文学選集1「無情」を読んで。
李光洙著 波田野節子訳
私がこうして存在しているのは、約4年前から始まった激動的な生活の変化による。
それはその時に出会った「本」と、その本からの「疑問」による「終わりなき反復」によって、「歴史」と「地理」という壮大なる時空間に吸い込まれて、魅了し同化していったからだ。
中でも、上記一冊の役割は大きい。その理由は・・
1、「時代が変わる時」=「ライフスタイルが変わる」ということを、見せてくれた。
この本は朝鮮半島が日本であった1917年、朝鮮近代文学の祖と呼ばれる李光洙によって書かれた。
西洋列強の帝国主義による近代化が、この東洋に押し寄せた時のこと。
例えば儒教の国である朝鮮半島は、親が死ぬと3年間の喪に服すしきたりがあって、それがごく普通のライフスタイルだった時に・・
「これはいったいどうしたことだ。恩師の墓の前で無理にでも涙を流そうと思ったのに、ちっとも悲しくないのだ。人間がこうも突然変わるものだろうか、そう思って亭植(主人公)はにっこりとした。」
「墓の下の哀れな恩人が腐って残した骨を思って悲しむより、その腐肉を養分にして育った墓の上の花を見て楽しもうと思った。」
主人公は、泣かなければならない時に、笑った。
それも死体の栄養を吸って育った花を見て、楽しもうと思い笑ったのだ。
この一節が与えた、当時の人たちの驚きとは・・・・。
古い時代に切り込み、新しい時代を創っていくという、啓蒙的役割としての「文学」の位置を知ることになった。
2、西洋列強たちが当時の東洋(中国・韓国・日本)に対し、どのように侵食していったのかを、半島の立場で見ることができた。
主権は国民に「歴史の共有」を通して、国家形成に役立たせる。それはストーリーテーリングとしての歴史は、主権の主観が入りやすいということでもある。
だからあえて「歴史」ではなく「文学」を通して、それも朝鮮半島の未来を憂い「売国奴」といわれながら親日派を選択した李光洙(日本名:香山光郎)という作家の人生を通して、時代を知ることができる。
この時から当時果たせなかった、李光洙の意志を感じるようになった。
文書に収めることや字を書くということの「意味」と「価値」を、深く認識させられた。
こうして私は、これからも新しい私を創っていく—。