孔子縞于時藍染③~山東京伝の黄表紙
道徳のゆきわたった江戸の町を想像し、寛政の改革に苦しむ庶民の悲惨な現実とは逆の世界を描いた大人の絵本、黄表紙の作品。
山東京伝作画の「孔子縞于時藍染」(寛政元年・1789刊)上中下三巻の現代語訳の三回目、最終回の紹介。
下巻
十二
「倹なるは固し、むしろ固しけれ」(倹約家は頑固だが、贅沢で礼をなくすより、むしろ頑固であれ=「論語」)
と、当世の通人は、そまつな服を伊達だと言い、安手の木綿の着物にそまつな麻の羽織なぞを好む。
田舎の武士「あれもどこかの通人だそうな。安い木綿できめているのは、また格別粋だぞ」
座頭「向こうの犬のフンが多かった道は、今では金をふんずけてならぬ。いまいましいことだ」
十三
芝居なぞは、入場料を逆に出して見物客を入れるので、尊き人は安い席で見る。狂言のストーリーも、貧乏の話を取り入れ、
「明け六つの鐘(午前6時頃)を合図に三百両の金をきっと支払いましょう」(本当は三百両が出てくる話)
と、登場人物鬼王団三郎のセリフを、やんややんやとうれしがり、「宝の山」というセリフも、
「貧乏の山へ入りながら、手をむなしく帰るが口惜しいわい」
と言えば、見物はそれをほめる。
瀬川菊之丞「三百両の金が、ほしくもなんともないなあ」
市川団十郎「東西東西。やかましいわえ」
「男女はまじわり座せず、みずから授けを受けず」(男女は一緒に座らず、直接物の受け渡しをしない)
と、男桟敷席、女桟敷席というものができる。このころ、混浴の銭湯には一向入る者なし。
客「これこれ、服をちゃんと着なせい。あんまりはだけると肌が見えるぞ」
十四
吉原の裏手なんぞは物騒になり、夜更けになると追いはぎならぬ、追いはがれが出て、行き来の人を待ち受け、とっつかまえて、自分は真っ裸になり、衣服、大小の刀、金銀を、相手にくくりつけて逃げる。
追いはがれ「ふんどしは、金玉が見えるから堪忍してやろう。おお、寒い寒い。こうしてはみたが、さぞおまえはあったかだろう。うらやましい、うらやましい。それでは、おさらば、おさらば」
男「金銀はいただきますが、せめて衣服や大小の刀は、かんべんしてくださいまし。悲しや悲し。もうしもしもし」
男「おれの姿は、いたずらをしてしかられた子どものようだ。こんな姿を子どもで描くと、『令和の現代では認められない児童虐待のようですが、当時の時代背景を考え、あえてそのまま模写しました』と注釈が必要だ」
追いはがれ「追いはがれというものは、さてさて、張り合いのないものだ。こんな姿は、丁半博打に負けて、衣服まで差し出して逃げているようだ」
十五
こうして世の人々は、孔子や孟子の道徳を学び、いざこざのない世となり、土地の神様もそれを感じ、田んぼでもない所に稲を生やし、稲穂が豊かに実りければ、農民は米の置き場所もなく、仕方ないので、ぼら長左衛門様へ、
「三年間は、年貢を一倍増しでお取りくだされ」
と、お慈悲をくだされと願う。
ぼら長左衛門様も仁徳のあつき人ゆえに、さっそく聞きとどけたまい、米を取り上げたまうこそありがたき。
長左衛門「あんまり土地の神様が気がつきすぎて、こまったものだ」
農民「この訴訟がすんだら、両国で想像上の動物、キリンビールでおなじみの麒麟の見世物を見ましょう」
農民「うち続きました豊年で、なにを申すも、米の置き所に難儀いたしております」
農民「長左衛門様は、年は若いが、ありがたい殿様だ」
十六
天の神様も、世の徳を感じ、おかどちがいの気をまわし、空から金を降らせたまう。最初のうちは、ここに三両、あちらに五両ぐらいのことだったのが、だんだん大降りとなり、黄色いヤマブキの花が嵐に舞うがごとくにて、人々、おおいに難儀する。
男「これはこれは大変でござります。天で無間の鐘をついているようだ」
男「大金持ちの紀伊国屋文左衛門が、お金をばらまいているようだ」
男「♪金の降る夜は楽しいペチカ。ああ、なつかしい歌だ」
女「とんだ悪い天気だ。もう降り止みそうなもんだ」
十七
かくして、高き山から深き海まで、谷も川も家も、米と金にて埋もれてしまったけれども、
「天道人を殺さず」(天は、仁徳があるので、人を見殺しにはしない、ということわざ)
のたとえどおり、世界の人々、金銀の中をかきわけて、ようよう命が助かり、「極上大吉」の、めでたき代こそありがたき。
人々「金がわいてくるとは、よく言ったものだ。こう、わいて出るとはこまったもんだ」
人々「浅間山の溶岩や噴煙で埋まった現実とは、えらい違いだねえ」
人々「めでたいにもほどがある。ここまでめでたいことなぞあるわけがない。ばかばかしい」
♪そりゃ、出た出た亀の子、金の子が出たよ。親ももぐれば子ももぐる~
政演画 京伝作(宝の山の印)
空から降るのは、天明三年(1782)の浅間山の噴火が江戸の人々には印象が強い。火山灰が江戸まで飛び、火山岩が飛ぶ様子も、当時の人々は瓦版や本によって聞き知っていた。天明六年(1786)には大きな水害があり、江戸に大きな被害があった。天災が続くために、天明の大飢饉(1782~1788)もあった。大災害時代の、そんなぶっそうな世相だから、追いはぎや強盗、スリなども増えて、犯罪の多い時代だった。
京伝は、当時の世相を描きながら(現実とは逆にしながら)、「寛政の改革を批判した」と、処罰をうけないように、田沼意次のことなどにはふれず、庶民の生活のみ描いている。制約のある中で、できるだけの表現をしたものが本作品だろう。「論語」の言葉なども、当時の人々は、よく知っていたからこそ作品に描かれる。こういう黄表紙作品もあった。
マンガ家として初の文化勲章を、ちばてつや(85)が受賞した。その受賞決定時のコメントで、
子供の読み物と思われていた漫画を「文化」と認識してもらえるまでに育て上げてきました。
(中略)
今後日本の漫画が世界の「文化」の一翼となり、さらなる飛躍を遂げる一里塚として、謹んで(文化勲章を)承ろうと思います。
と述べている。
けれど江戸時代の日本では、すでに絵と文が一体となった大人の読み物としての黄表紙の文化があり、多くの読者を得ていたことも忘れてはならない。
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