百人一首むすめふさほせ 瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ
流れの激しい川の流れ
岩に裂けられ二つに分かれ
二つになっても
その後きっと
あえる
二人の恋
藤原定家の選んだ「小倉百人一首」の一字札の最後、「むすめふさほせ」の「せ」。
これで一字札シリーズはおしまい。1200年頃にまとめられた百首の和歌を2022年に見直すというのも感慨深い。1000年近く古い昔の言葉を見て読む。千年の時を隔てているとは思えない言葉の数々。1000年前の言葉が飛び交うかるた会の光景が当たり前にあるのは、不思議な話だろうな。
77 瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ 崇徳院
川の瀬の流れが速く、岩で二つに分かれた急流も、その後一つになるように、別れ別れとなったあの人と、今は別れ別れとなっていても、またいつかきっとあいたいと思っているよ。
「瀬」は川の浅いところ。「瀬を早み」で理由を表し、「川の瀬の流れが速いので」の意味。
ヘビのように蛇行する川は水が深く流れがゆるやかな淵と、川が浅く流れの速い瀬からできている。日本の川は、山から急流となり流れ落ち、川幅もそんなに広くなく、勢い良く流れ、短い距離で海に向かう。ゆったり流れる大河とは違う趣をみせている。
「滝川」は、滝のような急流、激流のこと。
速い流れが岩によって二つに分けられる。けれども岩を過ぎればまた一緒になる。
それと同じように、激しい思いで求め合い愛し合った愛しいあの人と今は別れ別れとなったとしても、またいつかきっと一緒になろうと思う。
「瀬を早み岩にせかるる滝川の」が、「われても」という言葉を出すための前置きの言葉、「序詞」となっている。激しい流れと同じように、激しく愛し合っていた二人。
「われても」は水流が別れるという意味と、男女が別れるという意味の二つがある。「あなたと別れても、きっとまた逢いたいと思う」ということを詠いたいがために「滝川」を、たとえとして使っている。
二人が再びあえるというのも、この世であえるのではなく、あの世、あるいは来世であえるという意味であるかもわからない。今のこの世ではあうことができなくても、生まれ変わって一緒になりたい、そんな思いを込めているのだろうか。
作者、崇徳院(1119~1164年)は、鳥羽天皇の皇子で、5歳で天皇となり、後に上皇となる。自分の意思ではなく、父の意思で人生を流されていく。唯一のよりどころが和歌だったようだ。誰を天皇にするかという権力争い、保元の乱(1156年)で破れ、讃岐(香川県)に流され、45歳で没した。
この世では自分の思いとは別の生き方を強いられた崇徳院は、恋においてもこの世ではかなわない恋を詠っていたのだろうか。
崇徳院は、讃岐に流されていたので、讃岐院とも呼ばれる。都で災害や事件が起こると、崇徳院のたたりではないかと貴族たちはおそれた。菅原道真、平将門、讃岐院を日本三大怨霊と呼ぶこともある。ともにたたりをしずめるために神として祭られている。
人の魂をしずめるために神社をつくることもあったが、歌(和歌)を詠むことでも魂をしずめようとした。歌は、ただの言葉の集まりではなく、人々の心を落ち着かせ、天変地異や事件をもしずめる力をもっていると考えられた。
言葉の持つ力が信じられていた。
言葉には霊力があるので、よくない言葉を使えば悪霊を呼ぶこともある。よい言葉を使えばしあわせもやってくる。「死ね」という言葉を口に出せば、本当に「死」がやってくるとも考えた。だから、「死ね」という言葉を使ってはならない。
ダジャレを駆使して「懸詞」と言い、飾りの言葉をたくさんつけて「序詞」と言う。和歌という、言葉からできた「歌」をつくって日本人は生きてきた。
時代とともに言葉は変われども、現代まで生き残っている言葉が百人一首の言葉だ。何百年も前の言葉を、かるた会では当たり前に使う。
時代とともに生き、人々にしあわせを届けてきた百人一首の言葉を、一つでも多く自分のものにして後世に伝えていきたい。
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