貧しい農夫と大きな一本の木と現代社会と
貧しい農夫の家の畑に、大きな一本の木があった。
実がなる木ではなく、ただセミや小鳥の憩いの場となっていた。
農夫は、この木は何の役にも立たない、この木がなければ畑を少し増やすこともできるだろうと、木を切ることにした。
オノを持ってきて、ガーンと一撃をくわえた。
すると、びっくりしたセミと小鳥がやってきて、農夫に訴えた。
「どうぞ、この木を切らないでください。この木を切らずに残してくれれば、美しい歌を歌ってあげます」
「この木があれば、あなたが畑仕事に疲れたときに、木陰となって休ませてくれますよ」
セミと小鳥が一生懸命訴えても、農夫は何も聞こえないふりをして次々にオノを振り下ろした。
すると、木の中に穴が開いていた。そしてミツバチの巣があり、あまいにおいがしてきた。
ミツバチの巣の中にはハチミツがあり、ちょっとなめてみると、とてもおいしい。
農夫は、オノを投げ捨て、この木を大切に世話するようになった。
人間は、利益があるとわかれば、他のことを大事にするよりも、利益を一番に考える。
イソップの寓話にある話だが、人間は利益第一の生き物だという。
しかも利益は、労働で得るのではなく、偶然手に入るものが一番と考える。
株式というものは、企業が資金を得るために行うもので、株主は利益が出れば、利益の一分を得ることができる。
とこるが、ある会社を大きくしたいので株を手にするのではなく、そのときそのときの利益のために株の売買をする。それが正しいことだと、日本政府が音頭をとって新NISAだ、買え買えと叫ぶ。
IRは賭博だ、パチンコはギャンブルだという横から、テレビでは競馬、競輪、競艇のコマーシャルを明るく楽しく流す。宝くじのコマーシャルは、若い人気俳優を使い、さあ買え買えという。
楽して金を儲ける話ばかりだ。
働かざる者食うべからず、という言葉は死語となってしまったかのようだ。あんまり苦労をしたくないから、簡単に金が手に入るだろうと闇バイトに手を出す。バイトなんかではなく、ただの犯罪だ。
今の政治は、教育の無償化や低所得者への現金の給付が当たり前になり、働かなくても金が手に入ることが正しいような傾向がある。もちろん、本当に苦しい人には補助をするのは当たり前の政治だが、働かなくても生きていけるという風潮があるのも事実だろう。
今の日本は、若い人や子どもたちに、働かなくてもいいという考えを教えているようにも思える。
イソップの教訓は、人間はこういうものだと説明し、だから、鳥や虫を追いやり、木々を切り倒し、人間の欲望のままに生きよ、と述べているのだろうか。
東洋の考えでは、人も自然の中の生き物だという思いがある。人は自分勝手な部分があるから、そんな煩悩を捨てて、自然の中で自然と一体となって生きよと述べる。
今一度、我々の祖先がたどり着いた考えを、現代の我々も考えた方がよいのではないだろうか。