天下一面鏡梅鉢③~江戸の風俗がわかる絵本物語
寛政の改革(1787~1793)を茶化し、舞台は過去にもっていったものの、描かれるのは江戸の風俗。文と絵で表現した、そんな黄表紙の作品。
「天下一面鏡梅鉢」(寛政元年1789刊)唐来参和(1744~1810)作、栄松齋長喜(1725~1795)画、三巻三冊の現代語訳、下巻、最終回の紹介。
下巻
十二
穏やかな天気が続けば、「雨が続いて干せなかった」という紺屋(染め物屋)の言い訳もできず、雨の日のゲタやカサ屋も、ちと困る。
女房「今日は雨が降るようだけど、安全な世なので戸をしめぬから、雨が降り込んだら困ってしまう」
亭主「降り込んでもいいさ。明日になれば畳がえすりゃいい。金はたんとあるから、困ることはない。しかし、トイレの戸も開けっぱなしではちょっと困ってしまうなあ」
十三
昔、キリンと呼ばれる軽業師がいたが、それは人間のこと。こっちは正真正銘の伝説の動物、聖代に現れるという麒麟の見世物が出てきて、見物人が山のごとし。
男「こんな聖代に、うそなんてつくもんか。看板に偽りなしさ」
見世物師「これが『史記』にいう、西に狩りして手に入れた獣でござります。体に炎があるので、それでタバコに火をつけて見せましょう」
客「これを捕まえるには聖人の声まねをするのですかね」
客「鳳凰は竹の実を食うそうですが、麒麟は何を食いますか」
木戸番「入場券はここだよ。さあ、買って買って勝手に買って」
十四
この頃の人は、万事に苦労というものがないので、みんな長生きとなり、人間の一生は百五十年くらいとなり、百一つで誕生を祝い、それより七五三の祝いもする。
女「おばあ様は美しいべべを着て、ごきげんだ」
今まで見たこともない鳳凰という鳥が見つかったので、鳳凰茶屋ができる。
男「鳳凰を見てお休みください」
当時、クジャクを飼っている孔雀茶屋というものがあったが、鳳凰とは、こりゃすごいもんだ。
十五
かかるめでたき日本国なれば、天皇を敬い、道真の聖徳をしたいて、朝鮮、琉球はいうにおよばず、大唐国、天竺、そのほか万国の異形の国々まで、貢ぎ物を持って来日すること、バーゲンセールの如し。
見物「あとに続くのが女人島だ。いい女はいないかなあ」
子ども「かかさん、あの小人島のを一匹ほしいよお」
見物「だんだんばけものが出るは出るは」
見物「あれあれ、大人国の人が向こうに見える」
瓦版売り「万国の人、来日し、行列のしだい、しだい~」
十六
右大臣菅原道真公、天皇の御師範なれば、その徳を天満大自在天神とあがめたてまつられる。これは、太宰府の天満天神と仏教の自在天をかけあわせた言葉なり。年々の祭礼も泰平の世であり、酉年のニワトリもコケコッコーと驚くこともなき泰平に、何もおもしろき案もないまま、こんな話のまま筆をとめる。(この本が発行された寛政元年は酉年)
めでたしめでたし
寛政の改革をあつかった黄表紙は多いが、
朋誠堂喜三二の「文武二道万石通」(天明8年1788刊)はこちら、
恋川春町の「鸚鵡返文武二道」(寛政元年1789刊)はこちら、
黄表紙は、A4サイズ(297㎜×210㎜)の半分のA5サイズ(210㎜×148㎜)よりも小さい、B5サイズ(257㎜×182㎜)の半分のB6サイズ(182㎜×128㎜)くらいの本だ(約190㎜×130㎜)。B5サイズほどの紙を5枚印刷して、半分に折ったものが一冊で(表紙は除く)、だいたい二~三冊で一つの物語になるというもの。
こんな小さな本の中に夢をいっぱいつめこんでいる。浮世絵師たちも、こんな小さな画面にスケールの大きな画面を描き込むこともある。
舞台がどこであれ、中身は江戸の風俗になる。
江戸の町がいっぱいつまった黄表紙が、もっと評価されてほしいものだ。