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妖怪がキャラクターとなり、大学共通テスト問題となる

 第1回の大学入学共通テスト、国語の第1問に、香川雅信「江戸の妖怪革命」の序章の一部が出題された。
 問題文、難しいなあ。さすが大学だ。受験生は初めて見る文章だという人が多いだろうが、妖怪についての本を読んでいる人、考えている人はわかりやすい部分があるのではないだろうか。
 序章は「妖怪のアルケオロジーの試み」と題され、なんのこっちゃだが、中身は妖怪。自分が知っている内容だったら理解しやすい。
 環境問題について知っておれば、環境問題について書かれた文章を理解するのが早くなるのと同じだ。

 もともと妖怪は、非日常の人間を超えた存在として考えられた。鬼や神と同じ存在としてあった。
 香川氏は、「日常的理解を超えた不可思議な現象」であり「日常的な因果了解では説明のつかない現象」であると表現する。「妖怪は神霊からの『言葉』を伝えるもの」として存在したと考えた。
 近世、江戸時代になると、西洋の博物学に相当する本草学(ほんぞうがく)が成立した。百科事典のように、いろいろのものをまとめだしたのだ。
 もともとは、薬草をまとめたものだったが、薬草だけでなく他の植物、昆虫、などもまとめるようになった。
 妖怪、化け物もたくさん並べる、百鬼夜行の図がたくさん描かれた。そこに新しい妖怪も作り出された。ちょうど今のゆるキャラのようなものだ。人が恐れる神秘的なものだった妖怪が、ただのキャラクターになった。「妖怪に対する認識が根本的に変容」した。香川氏は、そのように述べている。

 人間を超えるものは「神」として日本人は敬った。
 八百万(やおよろず)の神という言葉があるが、日本では神様が八百万もいるのだ。「妖怪」といわれるものも、もちろん神だ。何から何まで神にしてしまうと、本当に敬うべき神と、ちょっとほっておいてもよい神ができてくる。ほっておかれた神が妖怪となった。尊敬はなくなったが恐れだけ残っているものは鬼となった。
 日本人は、人間を超えた自然現象を八百万も考えた。本草学でも、いろいろなものを並べていく。自然が人間のすぐそばにあった。

 香川氏の「江戸の妖怪革命」では、「妖怪に対する認識がどのように変容したのか。そしてそれは、いかなる歴史的背景から生じたのか。本書ではそのような問いに対する答えを、『妖怪娯楽』の具体的な事例を通して探っていこうと思う」と考える。江戸時代に作られた妖怪玩具として、手品、カルタ、人形などがある。
 江戸が終わり近代になると、「近世の妖怪観はふたたび編成しなおされる」と香川氏はいう。
 近代は、人間の「内面」ということが考えられるようになり、妖怪たちは「『人間』そのものの内部に棲みつくようになった」という。ただのキャラクターから、人間を考えるための存在となった。

 問題文の中には、芥川龍之介「歯車」も書かれている。ドッペルゲンガーの話だ。一つの問題の中に、複数の作品を入れるテストが多い。
 ドッペルゲンガーは自分と同じ、もう一つの自分。もう一つの自分を見たら死ぬといわれている。妖怪と同じで、現実には存在しない「もの」だ。そんな話を、純文学の芥川賞の本家本元が描いている。
 これも、ドッペルゲンガーについて知っていたら、理解が早い。明治大正の知識人は、海外のSFなどもよく読んでいた。とにかく知ろう知ろうという意欲が大きかった。
 ノーベル賞候補にもなった三島由紀夫も「美しい星」というSFがある。三島は、本当にUFOを信じていたようなところもある。まあ、正常ではなかったから割腹自殺をしたのだろう。SF的設定を舞台としているが、「美しい星」は、おもしろい小説だと思う。時間があれば読んで、自分に合うかどうか考えてみればよい。
 三島の遺作となった「豊饒の海」4巻は、三島の事件の後は、しばらく読もうとは思わなかったが、後に読んで、私は恋愛小説として読んだのだが、おもしろかった。「おもしろかった」という言葉で全てをくくってしまうのは思考停止だろうけれども、小説の感想は人それぞれだから、「おもしろかった」という私の感性に興味を持ってもらえるかどうかだ。

 妖怪も、香川雅信「江戸の妖怪革命」に興味を覚えなくても、水木しげるの妖怪マンガに興味を持てば、そこには自然と共に生きた日本人の心が見える。
 難しく表現された論文も、やさしく描かれた妖怪マンガも基本の心は変わらずにいる。何百年も続いた日本的感性は自然の中で生まれ、同じ流れをしているように思う。アニメの鬼太郎は、ちょっと違って、ヒーローものになっているけど。


 大学に入学するためにも(?)、豊かに生きるためにも、いろいろなものを吸収していきたい。



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