「万葉集」と斎藤茂吉「死にたまふ母」(「赤光」)の悲しき挽歌
斎藤茂吉(1882~1953)には、万葉集の歌の解説をした「万葉秀歌」(1938刊)という本があり、今でも売られている。
「万葉集」は、奈良時代に作られた、日本最古の歌集(それまでにも歌集があったかも知れないが、残っているものでは一番古い!)。約4,500首の歌が収められ、作者は、天皇、貴族だけでなく、農民や防人(兵士)の歌もある。大伴家持が編集に関わっていると考えられる。
歌の内容は、男女の恋の歌「相聞(そうもん)」、人の死に関する「挽歌(ばんか)」、その他の歌の「雑歌(ぞうか)」となる。恋の歌と、人の死に関する歌が大きく特徴づけられる。人が歌を詠うときに、「恋」と「死」は大きな影響を人に及ぼしている。
恋するから詠う。
人が死ぬから詠う。
日本人は、死んだ人の魂を鎮めようと、死者を「神」として祭った。菅原道真の天神様などは、祟りを恐れて神として祭ったものだ。「死」に関しては、魂を鎮めるために、「墓」を作り、歌を詠んだのだろう。けれど、死者の霊を恐ろしいと思うだけでなく、誰かの死によって残された人々の悲しみを癒すためにも歌が詠われたのだろう。
死を悲しむから詠う。
「挽歌」には、残された人の悲しみを癒す歌が多く残されている。昔の人にとって、死は大きな問題だった。
今の子は、死を見ることが少ない。
昔の子は、昆虫採集をして、昆虫を殺していた。トンボの腹をちぎって飛ばして遊んでいた。残酷なことをいっぱいしながら、それでも死を感じることができた。祖父母が家で亡くなる。目の前で命が消えていく。今は祖父母は別の場所で生活し、亡くなるのも病院。家族が亡くなるのも病院。
死がどんどん遠くなっていく。
万葉集を愛した斎藤茂吉の歌集「赤光(しゃっこう)」(1913刊)には、母の死を詠った連作「死にたまふ母」59首がある。母の死の悲しみを、これでもかと振り切るために59首も詠ったかのようだ。
「死にたまふ母」は、四つの場面に分けられる。
その1
東京で、母危篤の知らせを受け、故郷山形へ向かう。
みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげる
東北に住む母の命があるうちに一目会いたいと、ひたすら急いでいる。とはいうものの、作者は汽車の中。急ごうにもどうすることもできない。そんなやるせなくつらい思いを詠う。
その2
病床の母が亡くなるまで。
死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる
死の迫った母に添い寝をしていると、遠くの田んぼのカエルの声が天から降ってくるようだ。恋をし、新しい命を生もうとするカエルと、命をなくそうとする母の対比。
我が母よ死にたまひゆく我が母よ我を生まし乳足らひし母よ
母よ、死んでいかれようとしている母よ、私を産んでくださった母よ。母は、私の命を産みだしてくれた存在。
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり
のどの赤いツバメが二羽、梁にとまっている。母は亡くなった。
屋梁は、日本家屋の柱の上に張って、屋根を支える木。そこにツバメが巣を作ろうとしている(作っている)。新しい命を生み出そうとしている。その下で、母は命を失った。
「足乳根の(垂乳根の)」は、「母」を呼び出す枕言葉。枕言葉は、五音の言葉で、何かの言葉を出すための前置きの言葉。
たらちねの → 母
あしひきの → 山
ちはやぶる → 神
ここで覚える。
その3
母の遺体を焼く。 野辺送りの帰り道の歌。
うらうらと天に雲雀は啼きのぼり雪斑らなる山に雲ゐず
空にヒバリが鳴き、雪がまだらに溶けた春の山には雲も見えず晴れ渡っている。ヒバリは高い空の上で鳴いている。山は蔵王。
その4
葬儀を終えた後の、故郷の山の様子。
火のやまの麓にいづる酸の湯に一夜ひたりてかなしみにけり
山のふもとの温泉の湯に一晩つかって悲しんだ。温泉の湧く、火山帯のある山。酸の湯は酸性の、硫黄泉の湯。蔵王の高湯温泉のこと。
過ぎてしまえば、あっという間の時間だけれど、亡くなった人への思いはずっと残る。
こうして59首の歌を詠い、生き残った作者は、やっと悲しみに耐えることができたのだろう。
タイトル画像はままのすけさんからお借りしたものですが、下の名前をクリックすれば、元のイラストを見ることができます。息子と母ではなく、娘と母のイラストです。
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