見出し画像

啌多雁取帳①~歌麿描く黄表紙作品

 がんに乗って大人国たいじんこくまで旅する夢物語。文と絵が一体となった江戸時代の黄表紙きびょうしの作品。
 「啌多雁取帳うそしっかりがんとりちょう」(天明3年1783刊)は、奈蒔野馬乎人なまけのばかひと作、喜多川歌麿きたがわうたまろ画、蔦屋重三郎つたやじゅうざぶろう(1750~1797)から出版された三巻三冊。
 奈蒔野馬乎人なまけのばかひと(生没年不詳)は、志水燕十しみずえんじゅうの名でも知られる戯作者げさくしゃ
 歌麿うたまろ(1753~1806)は、浮世絵の美人画で有名。本名の北川から、浮世絵喜多川派をつくったが、本作では住居からとった忍岡歌麿しのぶがおかうたまろの署名となっている(現在の上野公園一帯はかつて忍岡しのぶがおかと呼ばれた)。
 黄表紙「啌多雁取帳うそしっかりがんとりちょう」の現代語訳を三回にわたって紹介する。上巻は、旅に出るまでの導入部分となる。

 


上巻

 この草紙そうしの意味は、「がんが飛んでいるのを見てかめ地団駄じだんだ」(自分を忘れ、他をうらやんでマネすること)というような意味で、草双紙くさぞうしのために作ったものではないけれど、蔦重つたじゅう(蔦屋重三郎つたやじゅうざぶろう)に話をすれば、「草双紙にして皆様に見てもらいましょうよ」と言うので、作者も絵師も黄表紙きびょうしは初舞台、よきご評判をいただきたいものと、雁首がんくびげて申しあげます。
  奈蒔野馬乎人なまけのばかひと

 


 ここに、所は御箪笥おたんす引き出しひきだし横町に、きくがま屋という質屋あり。旦那だんな様は、いきなことはしないで、ケチに暮らしているゆえ、番頭ばんとう手代てだいを多く使い、何不足なく暮らしける。旦那だんな様はとんちきのくせに、目利めききの鑑定眼かんていがんがあると自分で思っていて、正宗まさむねの刀、利休りきゅうの茶器、古い三味線しゃみせんなどの道具を質にとるため、客がいろいろなものを持って来る。
 もともとこの家は、旦那が留守のときは、番頭の金十郎が相手をするが、この男、目利きということは、流し目よりほかに知らないので、せっかく持ってきた質草を、持ち帰らすこと限りなし。
 今日も、舶来はくらい鉄刀木たがやさん三味線しゃみせんを持って来て、
「二十両、貸してくだされ」
と客が言う。
客「これは、私のところにある芸者の三味線でござりやす。どうぞ、二十両、貸してくんなせい」
金十郎「なんぼ鉄刀木たがやさんだと言いなすっても、旦那だんな留守るすだし、私は道具の鑑定かんていはお先真っ暗。旦那の帰ってくるまで、一(一両の1/4)だけ持っていきな。『二日ばかりに二十両、使い果たして一分残る』といった芝居の文句さ」
客「とんでもない。二十両の品物を一分とは、あんまりつれない番頭さん」
手代「どうやらちょっとキズがあるみたいだ。糸巻きもきついぞ。チチンツツチト♪」
番頭「小僧こぞう、お茶を持ってこい」

 


 金十郎は、ちょびっと遊女のつまみ食い、深川で女郎じょろう遊びを覚えてから、ちと吉原の遊びに誘われて、揚屋丁あげやちょうの伊勢屋という茶屋を通して、竹屋の歌菊うたぎくという新人女郎に馴染なじみ、何度も通い、「いつ来なんす」が数重かずかさなり、互いに将来のことを話すようになりしが、この伊勢屋の喜八きはちという男、頼もしき男にて、
「もしも、あなたが店を首になったら、そのときは私が借家の保証人になるし、あなたの女房は歌菊様よ」
金十郎「これこれ、喜八さん」
歌菊「もし、旦那、二階で遊んでるむら様は、酔って寝ていなんすから、今夜は泊まってもらってもよかろうかね」
喜八「二階の客は、店じまいのころに帰せばいい。ましを買ってきたらいい」
歌菊「二階には、ほかの客人もありいすから、ちっと静かにしなんし」
禿かむろ「喜八さん、よしなんし、乗ってきたら重たくってなりいせんよ」
喜八「黙れ黙れ。もう少ししたら、どのみち重たいものを腹の上に乗せることになるぜ」

 


 金十郎は、店の旦那の金で遊びちらかし、吉原メインの中の丁なかのちょうは人目が多いと、揚屋丁あげやちょうで遊んでいたが、そこの歌菊うたぎくに夢中になる。
女郎「そこの人、そこの人、早くいらっしゃいよ」
金十郎「今夜はおおかた、歌菊といちゃいちゃしたいなあ」
喜八「変な想像ばっかししてしまうよ」

 


 金十は、遊里遊びが度重たびかさなり、親方おやかたははなはだ腹を立て、粗末そまつな着物と、寝るためのゴザ一枚でお払い箱となる。
親方「おのれ、不届ふとどきなやつ遊女ゆうじょに心をうばわれるとは、にくやつじゃ。出て行け」
手代「ああ、気の毒なことだ。今までいい思いをしてきたから、これからはめしの生活だ」
雪駄せった直し「あの人も、どうやらおれの仲間になりそうだな」
金十郎「ゴザ一枚で家を出る、おれが悪いと知りながら、家を出るこそ悲しけれ」
 
 いつぞや喜八が、
「まさかのときは、どうとも」
と言っていた言葉をたよりに、料理番でもしてみる気になったが、結局は、おけたるを付け替える箍屋たがやを始める。はじめは裏通りで簡単な修理をしていたが、喜八の世話で、表通りに店を借りて、手桶ておけを大量に仕入れた。

 


 それより喜八きはちが世話した店で桶屋おけやを始めたが、引越祝ひっこしいわいの席で、同じ長屋の佐次兵衛さじべいの話に、
「俺の故郷は、とほうもなく寒い国で、ガンやカモが大きな池にこおり付いているのを、首をねじっては取り、ねじっては取り、腰に結びつけます。これをかよいで取りに行くので、『雁取帳がんとりちょう』というものをこしらえます」
 金十、これを聞いてきもをつぶし、
「なんとなんと、それを取ってきて、料理屋に売るってのはどうだろう」
客「そりゃ、いい考えだ。なんとか旅費をつくって、金もうけに行きたいものだ」

 


 次回へつづく、

 


 作者奈蒔野馬乎人なまけのばかひとは、志水燕十しみずえんじゅうの名で狂歌を作っていたが、狂歌についてはこちらも、


 絵師喜多川歌麿きたがわうたまろは、美人画で有名だが、彼の絵は、大首絵といわれる上半身のアップが多い。(それまでは、そういう描き方をしなかった)大首絵は1790年頃から出版された。大首絵の元となったのが、この作品(1783刊)ではないだろうか(下巻十二場面では、「あっ、歌麿だ」という表現になっている)。
 当時の浮世絵師は、黄表紙の挿絵も多く描いていたので、その作品からアイデアをもらうこともあっただろう。また、歌麿に関していうと、版元の蔦屋重三郎つたやじゅうざぶろうと一緒になって、次々新しいアイデアを出している。天才たちは、自分一人ではなく、他の仲間と協力しながら作品が完成している。浮世絵は、作者だけでなく、その文字を書く人、版木に彫る人、印刷する人、多くの人の手を経て作品が完成する。
 黄表紙も、自画作もあるが、絵師が別の場合は、こういう構図で描いてくれと絵師に頼む。絵師が、「いやいや、こうしたい」と言う場面もあったろう。作者と絵師が一体となって作品ができ、「啌多雁取帳うそしっかりがんとりちょう」も続いていく。

 


 黄表紙の始まりといわれる「金々先生栄花夢きんきんせんせいえいがのゆめ」の現代語訳は、こちら、

 黄表紙の代表作「江戸生艶気樺焼えどうまれうわきのかばやき」の現代語訳は、こちら、

  これらの中に、他の黄表紙の紹介もあるので見てほしい。
 

いいなと思ったら応援しよう!