桐一葉、その前に紫の花
桐一葉日当たりながら落ちにけり
高浜虚子
秋の陽をあびながら大きな桐の葉が風に乗り落ちてくるなあ。
季語は「桐一葉」で、季節は秋。
「けり」という切れ字を使って感動を表す。
桐の木は、昔は家によく植えてあった。女の子が生まれると、桐の木を植え、結婚の嫁入り道具に桐の箪笥を作って持って行かせると、うそかほんとか言われることもあった。それぐらいどこの家にも桐の木があった。
花札で、桐の葉と花を知っている人も多かった。
桐の葉は大きくなる。大きな葉がゆっくりと木から落ちてくる秋の情景。
作者、高浜虚子(1874~1954)は、「写生」を唱えた正岡子規の弟子。
虚子の他の俳句はこちら、
桐の木は、葉っぱが大きくなる前に、桐の花が咲く。
初夏の今は花の季節だ。
春の桜は、花が散ると青々とした葉が広がる。
青々とした葉も、秋になると赤くなる。真っ赤な葉もあれば、黄色がかった葉もあり、オレンジの葉もある。紅葉や楓の紅葉よりも、かえって桜の紅葉が綺麗かも知れない。
桜の葉が落ちると、裸になった枝には堅い蕾がしがみついている。蕾は堅いままで冬を越し、春になると緑になり、ピンクになり、満開の桜の花となる。
自然は次々に姿を変えながら生きている。
桐の木も同じだ。花を咲かせて、葉を広げ、その葉を落としていく。
今の子どもたちは、桐の葉を知らないし、桐の花さえ知らない。
桐の木は、ときどき生えているのを見ることがある。種が飛んで発芽しやすいのだろうか。いろんな場所で桐の小さな木を見る。桐の大きな葉が、1メートルくらいの高さにしか育っていない木についている。その大きさには不似合いな大きな葉がついているものを見ることがある。でも、花が咲いているのはあまり見ない。
ある日、車で走っていて遠くを見ると、紫の花が咲いていた。
あっ、桐の花だと思い、久しく見ていないなあと、近づいて見た。
葉はまだ小さい。花は綺麗に咲いているが、横には去年の花の種がまだ落ちずに付いていた。
花だけの綺麗な図ではないけれど、去年の名残も残しつつ、今を生きている。
綺麗な部分だけではなく、汚れた部分もあって、ひとつの木となっている。
人の人生も、綺麗なだけではなく、汚い部分もあって一人の人間。
これが本当に生きる姿なのだろう。
紫の花といえば、山では紫の藤の花がまだ咲いている。
藤の花について書いた文章はこちら、
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