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ニート、東北へ行く〜東日本大震災ボランティア記〜 一〜五

はじめに



東日本大震災から10年、節目なんてものはないってわかっていても、なんだか物思うことが多いこの頃。

10年前、あの頃の私は大学を卒業してから3年ずっーとニートだった。

そして3月11日14時46分、岐阜の我が家で地震を感じたけど、特に気にならなかった。テレビもつけてなかったし、ただ23日からはじまる私のはじめての個展(サポステとので繋がりでちょうどNPOを立ち上げた方のカフェで写真展&ジョブトレ)の準備でパソコンにずっと向かっていた。そして録画しておいたはずのワンピースが時間になっても録画されてないことにレコーダーを見て気づいた4時過ぎ、はじめてテレビをつけて気づいたんだ。とんでもないことになっていることを。


そしてそのほぼ2ヶ月後の5月20日、私は石巻の地に立っていた。ここにあの頃mixi!に載せた私のボランティア記をもう一度載せてみる。2011年5月~12月にかけて書いた私のボラ記を。私自身何か忘れてしまったものを思い出すように。まずは帰ってきて最初に載せたもの。

・風と星

自分勝手な思いで行った石巻だ。正直なところ、いかないとヤバいってなんかわからないけど思ってた東北だ。

着いた。見た。ひ弱ながら動いた。話を聞かせていただいた。いろんな仲間に助けられた。

ここに何を書けばいいのだろう?ただ、忘れられないものがたくさんあんだ。会った人たちの顔、枯れた竹林、ひより山の風のにおい、綺麗過ぎる星空。

帰ってきた今、何を伝えられるだろうか。思い記す最中だ。

ある光:小沢健二

Beautiful:Dragon Ash

星になれたら:Mr.Children


一・出発への心模様

 5月20日~28日まで、私はピースボートが募集している災害ボランティアに参加していた。一週間の作業(基本、泥かき。)を行った。過ぎてみれば、あっという間の日々だった。 そもそものはじまりはなんだっけ? 3月の終りか、4月の始めか・・・Yes! I’m neet!!!な俺がジョブトレ&俺の写真展開催中だった喫茶店で、マスターと俺が通っている若者サポートステーションの臨床心理士の先生(被災地に既に行かれている。)のお話を聴いたことがきっかけだった。それまで私の思いはこうだった。 「どうしてもことばに出せない。文章に表せられない。このたびの大震災については・・・。それが正直な思いで、どんなに罵られたとしても、亡くなられた方々への哀悼さえもここには載せられない。すごく怖い。ありふれた悼みのことばの様式をさがしてしまったことを。そのことばに慣れてしまったことを。」(「写真展・Happy~Monday!!!によせて」より抜粋。)

 どうしていいかわからなかった。ただ、何かわからない胸のつかえを、モヤモヤをただ抱えていた。阪神大震災も中越の大地震も、自分も避難したはずなのにハリケーン・カトリーナのときも、非道さだけに「あぁ・・・。」ってそのとき思っては忘れ去っていた。世界に無関心な私にとって、初めてのつっかえ方だった。 そのつっかえが二人の話を聴いて、ストンと落ちた…で、つづく。

同じ星空の下で:竹仲絵里


二・まだ悩んでんのか

 ストンと落ちたもの。そんとき書き記したのがこう↓ 

「そう、マスターと先生のこの大災害についてのお話に久々に目からうろこ的なことがあったんだ。帰りに大泣きしたんだ。人々が被災地に行くことを自粛していたけど、その地を己で見ること、見なきゃ他人事で終わってしまうこと、自分の中で納得して次の進めないんじゃないかってこと。あたしの胸をつっかえて離れなかった何か。流れる情報を信じて、今は行くべきじゃないんだって、モンスターボランティアなんてことばに踊らされながら、でもただ純粋に突っ走ってしまった思いはどこに行くんだろう?って思ってたこと。僕らは情報を知りすぎて頭でっかちになって、確実に正しいことしか、やってないんじゃないだろうか?被災者の気持ちになって・・・んなもんわかるわけがねぇよ!でも、困っている人を助けたい、慈愛の気持ちってのがだいたいの人間にあらぁ。それで、先走っちゃったり、無駄になってしまっても、それって本当にいけないことなのかなぁ。 先生が被災地に行ったこと。誘われて何で行くのって聞いたら、誘った方が「自己満足」って言って「じゃ行く。」って被災地まで行ったこと。 ああ、「自己満足」でいいんだと思ったんだ。なんか僕らは大事なもんまで自粛してる気がした。」 

それから少しして♪ゼーロー♪で災害ボランティアの人の特集かなんかを見た。「行かなきゃ。」って思った。衝動のまま、ボランティア先を探した。新聞の写真に「ピースボート」って書かれたビブスを着た人達が写っていた。この団体なら募集してるかも・・・と、調べたら、あった。でも一週間だ。しかもその一週間前に東京で説明会を受けなきゃならない。「無理そう・・・。」と体力面、金銭面にあっさり私はあきらめかけた。

それでも、行きたいってことをいろんな人に話してみた。そうすることで、もしかしたら自分に覚悟ができるかもしれない。そんななか、ap bankの短期プログラムを見つけた。でも、結局行かなかった。方向性が違ってきていた。近くで出来るものを気づけば探していた。募金活動とか、献血とかさ。献血に行った。体重が軽すぎて、血漿しか提供できなかった。

あのとき感じた「行かなきゃ。」は何処に行ってしまった?そんな感じだった。そして4月末…で、つづく。っていつ出発できる?俺?

三・だからぁいつ行くのさぁ

 4月も末になったある日、前記した先生が行く方がいるから紹介するって言ってくださった。「ああ!行ける!」そう思った。物資を運んでいる方だそうだ。荷物運ぶさ!しかも2日間だ。無理ない程度でいい。なんてこと思ったのが不謹慎かもしれないけど正直な気持ちだった。

 でも、やっぱそんなに甘くない。ゴールデンウィークで物資は十分足りているということで行くことが延期になったのだ。 私の方向性はは相変わらずフラフラしていた。いろんなものに手を出していた。でもいい。やりたいことやってたんだから。チェルノブイリの写真展をきっかけに原発反対パレードに参加したりしていた。ジャンベ叩きながら名古屋の街を闊歩したんだ。「なんでも楽しく。」それが最近のあたしのポリシーだった。「参加するバカ。」でいようと思ったんだ。 そんな「参加するバカ。」に吉報が舞いおりた。ピースボートが名古屋で災害ボランティアの説明会をするってんだ。しかも俺、その日名古屋にいる!!またまたつづく。

地平線まで:安藤裕子

四・説明会です

ようやく説明会だ~ 説明会はなごや地球ひろばとかいうところで行われた。中に入ると、すでにたくさん人がいた。新聞によると40人だとか書いてあったけど、もっといたような気がしたんだけどな。 配布された紙を読む。厳しいことが書いてある。被災者の方々との対応や、精神的・肉体的に過酷になること、身の回りのものはほとんど持参すること・・・。説明会でも念をおされた。ルールを守れない人は帰ってもらう…かぁ。

 すごいドキドキしていた。私に本当にできる?事前に調べてはいたけれど、改めて聞かされる石巻での1週間の作業。キッチン(調理)、デリバリー(炊き出し)、ストア(在庫管理)と、仕事はいろいろあるけど、ほとんどの人がクリーン(泥かき)にあたるようだ。応募要項の「体力に自信のある」を無視してきた私の胸が痛んだ。それでも。

 説明会が終わって休憩のあと、オリエンテーションが行われた。私は前の席に居たから気づかなかったけど、説明会参加者は結構帰ってしまっていた。よかった、前の方で。気持ちが揺らがないですんだ、そんな気がした。 

 私が行くと決めた5月20日~28日に参加するのは6名だった。20代から60ぐらいまで、幅広いぜ。どうもそのまま1チームとして、石巻でも活動するようだった。うっかり自分から自己紹介をし、うっかりしたままリーダーになってしまった。まぁ、連絡係ぐらいだろう。それに、20日出発前にリーダー研修が2時間あるだけでしょ?・・・えっ、なんて言いました?5時間研修?! まー聴き間違いましたなぁ。5時間て・・・。途方に暮れたが、まぁいい×2。ってか、すぐ決めること多すぎじゃね?誰がなにを持ってくるかって今決めんの?このチームで食事とかも一緒に作ったりするわけね?「米と土鍋持ってくるよ。」「じゃぁコンロ持ってきます。」「フライパン持ってくる。」「お菓子とかは?」「果物ねぇ・・・」とかなんとか。

 そういや、実際現地に行かれているスタッフさんに聞いて、情報を教えていただいたね。食事用の器にサランラップすれば、汚れないし、拭くことも少なくてすむ、とかね。さぁ出発まで1週間だ。で、つづく。

君にサヨナラを:桑田佳祐

五・じゅんびんでいず



 名古屋からの帰り道、行くと決めてしまったことにちょっと震えてた。でもそんな暇なく一週間の準備期間に突入!

 行くためのお金。なんだかんだでいる。安全長靴とか、防塵マスクとか、防水ヤッケとか、ヘッドライト?んなもんどこ売ってんだ?(JOSHINにありました)・・・ああ、電池式の携帯の充電器とか、名古屋~東京間行き帰りの高速バス予約しねぇと・・・、ああ、新宿~石巻間は連れてってくれるけど往復で5000円いるんだった。あ、ボランティア保険(災害型)入らなきゃ・・・。そして、何かあった時のためのお金・・・そう、ケガ、病気→独りで帰宅・・・何があるかはわからない・・・ちゃんとした備えが必要ってことだ。とりあえず、この3月~5月はじめまで喫茶店で稼いだお金と、貯めていたものをつぎ込んだ。
 食糧は若者サポートステーションのみんながカロリーメイトとかソイジョイとか、手軽に食べられる物をたくさんくれた。みんなの思いも背負ってんだ。なんて思った。

 そんなときに、メンバー移動の知らせがピースボートから。説明会でも言われてたんだけど、基本チーム体制として、6人中男1人だけとか女1人だけってのは難しいらしく、唯一いた女の子が別のチームへ(泣)。よし、男5人でやってこう!
 って待てよ。彼女が持ってくるはずだったコンロを再分担せねばっ。メンバーに連絡!なかなか色よい返事がない!出発前からお腹が痛い!しばらくして、持ってきてくれるメンバー現る!胸をなでおろす!メールしない俺がメールしまくりだ。
 でも、なんか何とかなりそうな気だけしたんだ。

 リュックを背負い、小さめのキャリーケースにコンロ結びつけ、手提げ袋に、ポーチにつめて、寝袋、長靴ぶら下げて、さぁ岐阜から出発だ。で、つづく。


 まだ出発してない。でも多分この行きたい!って思ってから逡巡してばかりの私の姿がなんか大事な気がする。すごい遠回りしたけど、結局は行けたのだから。

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