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「北斎話」画号の変遷〜音羽護国寺パフォーマンス

葛飾北斎の出生についてはよく分かっていないことが多いそうです。
飯島虚心「葛飾北斎伝」では、幼名を時太郎、その後に鉄蔵を名乗ったとしています。生まれた場所も武蔵国本所割下水(現在の北斎美術館がある辺り)という説が有力とのことです。

■画号
19歳(1778年)春川終章に入門し、20歳のとき「春川春朗」の画号を得ました。35歳(1794年)のとき、どのように接触していたか分かりませんが当時の琳派のリーダー格の俵屋宗理から36歳(1795年)で「宗理」の画号を得、45歳(1804年)までの9年間で「百琳宗理」、「北斎宗理」、「宗理改北斎」、「北斎時政」、「不染居北斎」、「画狂人北斎」、「九々蜃北斎」、「可候」などの画号が用いられました。39歳(1798)年に門人の宗仁に「宗理」を戻し、自らは「北斎辰政」を画号にします。

北斎が宗理を襲名する時代には、衰退しつつある琳派を俵屋宗理ら俵屋派一門の活動により、その勢いを取り戻しつつあったようで、北斎はその勢いの手助けしたのかもしれませんね。

一説には人気のわりにはお金がなく、七味唐辛子売りなどの副業を始めますが、それでも足らず、宗二に売ったともいわれています。画号が売れることに味をしめ、以降、お金に困ると弟子に売り付けたとも言われています。

46歳(1805年)「葛飾北斎」を使用します。また、一時的に「九々蜃」という画号も使ったといわれています。

51歳(1810年)「載斗」の号を用い、61歳(1820年)で「為一」、75歳(1834年)から90歳(1849年)で没するまで「卍」、「画狂老人」の画号を使用していました。引っ越しの数といい、画号の数といい、どれだけ変えれば良いんだと思いますが、波乱万丈の北斎の人生の中、その時々で心情が変化していたのでしょう。私のような凡人では理解できないですね。

■パフォーマー北斎
画号を「葛飾北斎」にする1年前(1804年)、北斎は「北斎漫画」の宣伝のため、江戸と名古屋大パフォーマンスを行います。

江戸では音羽護国寺で大ダルマを描いたり、回向院や本所合羽干場で布袋や馬の大きな絵、米粒に雀二羽の極小画の制作をしたことなども伝えられています。その後、名古屋の城下西本願寺掛所(西掛所)でもパフォーマンスを行っています。音羽護国寺のパフォーマンスで北斎は画面の大きさや観賞者の貴賤にとらわれず工夫を凝らしたことで、北斎の名前は江戸中に轟きます。大田南畝の随筆「一話一言」や斎藤月岑が著した江戸東京の地誌「武江年表」などにもその様子の記載があります。

■「葛飾北斎伝」飯島虚心著より
「葛飾北斎伝」飯島虚心著にも音羽護国寺でのパフォーマンスの様子が詳しく書かれています。 以下原文

文化元年、江戸音羽護国寺に於きて、観世音の開帳あり。四月十三日、本堂の庭前にて、北斎始めて大画の大達磨を画けり。先ず庭上一面に、麦稗をしき、畳数百二十畳敷の大厚紙を、其の上におき墨汁を酒樽四斗入に充て、藁掃をもて、筆に代へ、恰落葉をはらうがごとく、紙上を馳せ廻りて、異形の山水の如きのものを作る。暫時にしてなるといへども、見るもの、其の何たるを弁ぜず。さて本堂の上にのぼりて、これを見れば、即半身の大達磨なり。口に馬を通すべく、眼に人を座しめて余りあり。衆其の腕力の奇巧に驚かざるはなし。

「葛飾北斎伝」飯島虚心著より

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