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回し打ちの悲劇、国に人生を狂わされても~B型肝炎患者として生きる~

 「私が今から話すことは、まったく面白い話ではありません。だからまず脱線させてください。みなさんは、映画『ボヘミアン・ラプソディ』を知っていますか」。
 こんな切り出しから、2020年11月某日、オンラインで160人を超える未来の医療従事者たちに向けた講演は始まった。講師は全国B型肝炎大阪原告団団長の三瀬一哉さん(仮名・53歳)。全国B型肝炎訴訟大阪弁護団の弁護士とタッグを組んで講演を進める。三瀬さんは、かつて国内で横行していた集団予防接種の回し打ちの被害者、B型肝炎患者だ。

B型肝炎とは

 B型肝炎は、肝細胞がB型肝炎ウイルス(HBV)に感染することで起こる病気のことだ。感染すれば、肝炎、肝硬変、肝がんと、命にかかわる病を発症する危険性がある。感染経路は母子感染が大部分を占めるが、問題となっているのは集団予防接種だ。
 1948年、感染症を防ぐ名目で制定・施行された予防接種法により、国民の予防接種が義務化され、集団予防接種が始まった。しかしこの集団予防接種では、恐ろしいことに注射針の使い回しが平然となされていた。約40年もの間続いた回し打ちにより、感染被害を受けた人は40万人にものぼると推測されている。三瀬さんもその一人だ。

夢追う生活から一転して

 1966年、5人姉弟の長男として三瀬さんは生まれた。中学生の時に両親が離婚し、父子家庭となった。生活は大変だったが、仲の良い姉弟だった。幼いころから絵を描いたりモノづくりが好きで、大学卒業後は希望していたアパレル業界に就職した。
 入社後の健康診断で、ニッセイから血清肝炎であることを告げられた。母子感染によるものだろうが、8割の人は発症しないと医師に言われ、あまり実感もなく気にも留めなかった。しかし、当時もっとも親しかった友人にこの話をすると、「それ、エイズやん」と言われた。友人の何気ない一言に深く傷ついた彼は、以降このことを誰かに相談することはなかった。
 当時、神戸では日本人女性初のエイズウイルス感染者が確認され、マスコミの過剰、かつ偏った報道により「エイズパニック」が広がっていた。エイズに感染する人は、生活のふしだらな人だという誤ったイメージが多くの人に持たれていたのだ。三瀬さん自身も、少しそう感じていたという。友人は、血清肝炎であることとエイズへの偏見を安易に結びつけてしまったのだろう。
 32歳で結婚し、さらに能力を磨こうと、仕事をしながら夜間の服飾専門学校に通いデザインやパターンを学んだ。努力は報われ、主力ブランドの責任者に抜擢された。その時は本当に嬉しかったと、三瀬さんは懐かしむように語る。
 長女も授かり、仕事も順調だった35歳のときに、B型肝炎のキャリア(発症はしていないものの、体内にB型肝炎ウイルスを有している人)であることが判明する。しかしここでも医師からは母子感染であろうこと、発症の確率は低いことを告げられ、やはり自分が発症するとは思わなかった。44歳で仲間と独立し、ついに自分たちのブランドを立ち上げた。先の不安よりも夢への期待の方が大きかった。やっと家族旅行にも行くことができ、これからは家族の毎年の恒例行事にしようと決めた。
 しかしそんな日々は唐突に崩れ去る。謎の倦怠感に襲われるようになった。重い営業鞄を持って歩き回ることが辛くなり、移動途中の駅のベンチで座り込むこともしばしばあった。当時の手帳には、「からだがしんどい」、「疲れがピーク」といった言葉が多く書かれている。倦怠感は治まるどころか悪化し続け、45歳の頃、仕事で大きなミスをしてしまう前にと、やむなく退職した。念願の独立からたった1年後のことだった。専業主婦だった妻はパートに出るようになり、一家の大黒柱として情けない思いでいっぱいだった。
 その後も動けないほどの酷い倦怠感に苛まれていたが、ある日妻から黄疸を指摘された。これは肝炎が進行すると血液中にビリルビンという色素が増加し、眼球や肌が黄色く染まる症状だ。発症していた。近所の病院で検査したところ、ただ事ではないとすぐに県立病院を紹介された。肝機能の数値は基準値のおよそ50倍にまで上がっていた。
 まともではないその数値に「命に関わりますよ」と医師に告げられ、すぐさま入院することとなった。肝臓がボロボロになり、致死率80%以上と言われる数値に達している。小学生の子どもが2人いた。自分は死ぬかもしれない。これからの生活はどうなるのか。三瀬さんは当時のことを、「今まで一生懸命やってきたことが消えてしまった。すべて失ったような感じだった」と語った。

苦しみ続けた2か月間

 肝炎患者に主に使用されるインターフェロン注射での治療に加え、危機的状況にあった三瀬さんは抗ウイルス薬も併用することとなった。しかしこの薬は副作用が強く、服用後にできた子どもは障害を持って生まれる可能性が高い。加えて一度この薬で治療を始めると死ぬまで服用を止めることはできない。「子どもを作る予定はありますか?」と医師から問われたが、3人目の子を持つ夢は諦めるほかなかった。
 入院後も、状態は悪くなり続ける一方だった。1週間ほど経つ頃には、肝性脳症の症状が出始めた。肝機能の低下によりアンモニアが解毒されず、血液中のアンモニア濃度が上昇する。漏れ出たアンモニアが脳に達して脳症を起こし、意識障害などを引き起こすのが肝性脳症だ。当時医師から、このままだと肝移植をすることになると聞かされていた。肝移植のドナーとなるのはたいてい親兄弟などの血縁者や配偶者。彼は、苦しい幼少期を過ごした姉弟、辛い思いをさせている妻に、これ以上迷惑をかけたくないと、絶対に肝移植をしたくないと思っていた。意識障害を起こしたら終わりだと考えていた三瀬さんは、頻繁に容態を確認しにくる看護師に対し、必死に平気なフリを続けていたという。だが実際には、母や妻に意味不明な発言をしたり、脈絡のないメールを送ったり、看護師たちにも迷惑をかけていたそうだ。
 三瀬さんが肝移植は絶対に受けないと拒むなか、妻と姉弟たちは密かにドナー検査を行っていた。「妻はそもそも血液型が違うのでドナーにはなれませんが、他の姉弟の検査結果が出る前に、医師に『私の肝臓を使ってください』と申し出ていたと後で聞きました。彼女には、本当に感謝しかありません」。
 脳症や抗ウイルス薬の副作用もあり、当時の記憶ははっきりとはしないが、妹に電話をかけたことはよく覚えているという。「俺はもうダメだと思うから。妻と子どもたちと仲良くしてやってほしい」。不思議と死ぬことへの恐怖はなかった。ただ一度だけ家に帰って、自分の部屋とアルバムを整理してから死にたい。こう強く思っていたのは、はっきりと覚えている。
 「みなさんはこれから、人の生き死にの場面に直面することになるでしょう。でもそれが、自分だったら、どうでしょうか。自分が死ぬかもしれない、と具体的に想像したとき、人はどんなことを考えるのでしょうか」。未来の医療従事者に向けた講演を行うとき、彼はこう尋ねる。医療の場に立つということは、人の生死が当たり前になりえてしまう世界に入るということだ。実際に死線を越えた者として、医師や看護師には何を大切に患者に向き合ってほしいのか。彼の願いが感じられる。
 インターフェロン注射と抗ウイルス薬による治療は、何とか彼の命をつないだ。薬の効果により肝数値は下がり、肝移植も免れた。2か月間の入院生活を、「とにかく苦しかった」と彼は振り返る。退院後は今でも毎日の薬、3か月に一度の通院が続いている。完治する病ではないため、この生活は死ぬまで終わらない。彼の肝臓には以前から2つの影が映っており、最近の検査でさらにもう1つ影が見つかった。いつガン化するかもわからない。頭にはガン化した場合の生存率がよぎる。この不安が消える日は来ない。

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ただ一緒にいたかった

 「あんまり覚えてない」。当時のことを尋ねたとき、こう苦笑するのは三瀬一哉さんの妻、三瀬十和子(仮名)さん。夫がB型肝炎キャリアであることを知ったのは、結婚後の健康診断のときだった。発症確率は極めて低いと医師に言われたが、そもそも知識を得る手段もなく、気にすることはなかった。
 しかし約10年後、事態は急変する。突然夫が自宅で寝込むようになった。仕事で疲れているのかな。いつも無理するから……くらいに思っていたが、ある日、夫の白目が黄色に染まっていることに気づいた。何か良くない病気なのではと心配し、病院へ行くよう促した。とりあえず近所の病院へ行った夫は、すぐさま大病院へ。何が何だかわからないまま即日入院。夫は荷物を取りに一旦帰宅したが、困惑していた。十和子さんも、夫が死ぬのではないかと恐怖を感じ、この日は涙が止まらなかったという。
 医師から説明を受けたが、唯一覚えているのは「(肝数値が)このラインを越えたら危ない」ということだけ。しかし医師がそう簡単に越えることはないと言ったこともあり、このころはまだ悲観的ではなかった。
 初めこそ大丈夫だと自分に言い聞かせていたが、そんな気持ちをあざ笑うかのように、数値は日に日に上昇した。簡単に越えてしまいそうな上がり方に、毎日不安だった。早々に数値はラインを越えてしまい、「この人はもうダメなのではないか」という恐ろしい想像とともに、「私が子どもを育てていかなければ」と強く感じるようになった。
 入院中は、毎日欠かさずバスで夫の元へ通った。夫は毎日辛そうで、会話をしたりできるわけではなかったが、たまに気分がましな時は、車いすを押して病院の敷地周辺を散歩した。肝移植の話が出たときは、検査前に医師から妻の肝臓でも大丈夫だと聞くや否や、「私のものを使ってください」と申し出た。当時の心境を尋ねると、「最初からあげるつもりだった。(自分の肝臓を差し出すことに)迷いも不安もなかった」と彼女は言った。
 病院へ通いながら、彼女はどんな気持ちでいたのだろう。「最後だからとか、そういうことは考えていなかった。純粋に彼が好きだったから。ただ一緒にいたかった」。
 夫をどんな思いで支えていたかを尋ねても、彼女は、「自分は何もしていない。昔も今も何も考えてない。私バカだから、何もわかってないよ」と笑う。しかしそうだろうか。彼女にとって「何か」のカウントにすら入らない思いや行動は、夫にとって、限りなく尊いものとなっているに違いない。

母との溝、国を提訴へ

 危機的状況を乗り越え、何とか一命をとりとめた三瀬さんに、さらなる真実が待ち受けていた。25歳でキャリアであることがわかってから、ずっと母子感染だと思ってきた。自分を苦しませたウイルスは、母から感染したのだ。幼いころ自分やまだ幼かった姉弟を置いて行っただけでなく、こんな病気まで移すなんて。母を恨んだ。
 しかし4人いる姉弟の誰も、キャリアではなかった。肝移植はせずにすんだが、ドナー検査の結果で母子感染ではないという事実が発覚した。通常、母子感染の場合は子ども全員がキャリアになる。母子感染でないのなら、感染原因は集団予防接種しかなかった。この事実が判明し、激しく国を恨んだ。病気により人生は180度変わり、自分は死にかけ、家族の暮らしは厳しくなった。それだけではない。ずっと母を恨み続け、約10年もの間、絶縁状態となり孫ともろくに交流させてこなかった。「入院中、母はずっと私のむくんだ身体をさすったりマッサージしてくれていたそうです。あの時彼女はどんな気持ちだったのか。この10年、心から優しく接してやることもなかった。この月日は、あまりにも長すぎた」。
 2011年5月、国と全国B型肝炎訴訟原告団との間で基本合意が締結された。国が集団予防接種の回し打ちを防がず、夥しい数の感染被害者を出したことの責任を認め、謝罪したのだ。これにより裁判で和解した患者には給付金が支給されることとなった。
 入院当時はB型肝炎に関することはほとんど知らなかったが、母子感染でないことが発覚したのち、感染源について困惑しながらも必死に調べていくうちに、原告団と基本合意の話を知った。提訴することを決めた三瀬さんは、自分が国の被害者であることを証明する資料を集め、全国B型肝炎訴訟弁護団に訴訟を提起した。約1年後、国との和解が成立し、給付金を受け取るに至った。

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未来の世代に、正しい理解を

 国との和解が成立すれば、原告は多くの場合組織を離れるが、三瀬さんはそうはしなかった。制度はあっても、和解に至ることができるのは提訴した人のうちの約9%。ほとんど証明できないうえに、そもそも自分がキャリアであることに気付いていないケースも多い。自分と同じように、知らぬ間に感染させられ、B型肝炎患者となり苦しんできた人々があまりにも可哀想だ。そんな悔しさから、「社会を動かしたい」「正しい知識を知ってほしい」と、訴訟相談会や医療費助成制度拡充のための国会請願など、原告団の活動に本格的に参加するようになった。
 原告団のさまざまな活動に参加していく中で、彼はある重要性に気付く。それは、「将来社会に出る子どもたちに正しい知識を持ってもらう」ことだ。患者本人の生の声と、正しい説明を聞いてもらうことで、より理解を広めることが大切なのではないか。
 こうして三瀬さんが発起人となり、教育啓発活動(患者講義)が大阪で始まった。小学校から大学、医療専門学校に至るまで、あらゆる教育現場において患者講義を行っている。徐々に広がっていったこの活動は、今や全国規模となった。先日は、冒頭にもあるように初の試みとなるオンラインでの患者講義も行われた。
 受講者は小学生から医学生と幅が広いこともあり、三瀬さんは毎度少しずつ話す内容を変えているという。「体験したことや思いは変わらない。ただ、高校生相手ならば家族とのつながりを。医学生相手なら医療現場で衛生を守ることの大切さを。医師や看護師の笑顔や対応に、患者だけでなく家族も救われていることなどを多く話すようにしています。常に最善の患者講義ができるように」。
 患者講義は、患者本人だけでなく家族や身内に至るまで、プライバシーが侵されるリスクを伴う。未だ誤った認識により偏見を持たれることのあるデリケートな話を不特定多数に語ることに、危険性や不安は尽きない。原告団として活動する被害者でも、プライバシーの観点から患者講義はできない、という人は多数いる。三瀬さん自身もプライバシーなどの危険性は十分に感じているが、これをやめてしまったら次の世代に引き継げない。理解を広められない。また、続けてくださいという声も多数あることから今でも患者講義には熱を入れ続けている。これを途絶えさせてはいけない。
 最近の講演では、大好きなロックバンド「クイーン」を描いた映画『ボヘミアン・ラプソディ』の話から始まる。B型肝炎と一見関係がないようだが、この作品は主にボーカルのフレディ・マーキュリーに焦点を当てており、同性愛者でもあった彼の、エイズによる最期も描かれている。エイズとB型肝炎は、どちらも偏見を受けてきた病。無知であることがいかに偏見や差別を生み、当事者たちを傷付けてきたか、三瀬さんなりのメッセージが組み込まれている。

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これからの世界へ向けて

 未来を担う世代への理解を広めることが重要だと感じ、教育啓発活動を始めた三瀬さん。しかしその気持ちの根幹には、自分の子どもたちへの愛があった。「これから先、誤った知識を持った人によって子どもたちに差別の目が向くのを防ぎたい」。その人自身がキャリアでなくとも、血縁者にB型肝炎患者がいるというだけで偏見の目を向ける人はいる。「正しい認識が広まり、子どもがいつか誰かに肝炎の話をしたときに、相手が理解ある人である世界になってほしい」。
 コロナ禍で対面の講演が難しくなってからも、オンラインで患者講義を実施している。5年前から続いているこの活動を通し、三瀬さんをはじめとした原告団、弁護団の人々の思いは届いている。理解の輪は少しずつ、確実に広がっているはずだ。
 B型肝炎患者に対する誤った認識だけでなく、他にも彼らを取り巻く問題は存在する。苦しんできた患者たちの負担が少しでも軽減されるよう、三瀬さんはこれからも走り続ける。(横山未来)