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「和」の像ってなんだ?

 関西大学千里山キャンパスを歩いていると、さまざまな銅像を目にする。しかし、その銅像一つひとつがどういった経緯で建てられたのか、どのような想いが込められているのかはあまり知られていない。大学の公式ホームページを開いてみると、「関大の魅力をとことん知る!おすすめコース」として「気になる彫像・石碑コース」を紹介するページがあり、千里山キャンパスにある銅像や彫刻、石像がエピソードとともに紹介されている。関西の主要私立大学である関関同立の中で、キャンパス内の銅像を公式にまとめている大学は関西大学だけである。このページによると関西大学千里山キャンパスには、大学創立の中心人物であった児島惟謙の像をはじめ、大学予科時代のバンカラな学生を模した「豫科青春の像」や、関大生なら誰もが一度は目にしたことがあるであろう図書館前の「友の像」など、石碑を含めて11個の彫像があるという。この中で私たちの目を引いたのが、「和」の像だった。

 「和」の像
 1969(昭和44)年の大学紛争で荒廃した学内に、人の「和」の大切さを再認識してほしいという願いを込め、翌1970(昭和45)年、事務職員有志の醵金により、関西大学会館前のロータリー植栽の中に建てられました。「和」の文字が抽象的なタッチです。

 「和」の像は「和」という文字そのものがモチーフになっており、人物を模した他の像とは一線を画していた。そもそも大学紛争とはなんなのか?銅像を建ててまで精神を正そうとするような荒廃した過去が、私たちの通う学校であったということなのか?興味を持った私たちは、「和」の像についてさらに調べてみることにした。

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「和」の像について分かったこと

 現在、「和」の像は大学本部がある関西大学会館前のロータリー植え込み内に建てられている。その前を通ったことがあるはずだが、銅像があることを覚えていなかった。『関西大学百年史』によると、像はブロンズ製で高さ約2メートル、像手前にある碑文に記された「和」の文字は当時理事長だった久井忠雄氏が書いたという。制作者は新谷英夫で、会館内にある創立者像のレリーフを作った人物でもある。像の完成にはおよそ2年の歳月がかけられ、当時の事務職員の有志317名が263万円あまりを拠金し、建立した。
 「和」の像の概略は掴めたが、きっかけとなった大学紛争の様子はどのようなものだったのだろうか。今からおよそ50年前、この千里山キャンパスで何が起こっていたのか。像建立の契機である大学紛争について、調査を深めることにした。

大学紛争とは

 公式ホームページで「和」の像建⽴の理由として挙げられた「⼤学紛争」は、⾼校時代に歴史の授業で聞いたことがある程度で、詳しくは知らなかった。当時の⼤学では⼀体何が起きていたのか、まずはインターネットで検索してみた。
 インターネットには、⼤学紛争とは1968年から1969年にかけて、学⽣が⼤学の管理運営や学費値上げなどを問題として取り上げ、暴動を起こしたこととある。関⻄⼤学も例外ではなく、社会学部の学会組織の運営についてなど、大学側の運営の仕方に不満を持った学⽣が1969年6⽉に教室に置いてある椅⼦などを使い、現在社会学部が⼊っている第3学舎の⼊⼝をバリケード封鎖する事件が起こった。この出来事を発端に⼤学内で6ヶ⽉以上にわたって紛争が続いた。また、事態の収拾のために機動隊が動員され、学⽣と衝突した。
 ざっくりと⼤学紛争について理解をすることができたが、インターネットには表⾯的な情報しか出てこず、「和」の像ついても有益な情報が得られなかった。そこで私たちは、当時の学⽣なら詳しい情報を知っているかもしれないと思い、社会学部の学⽣だった名誉教授の東村⾼良先⽣にインタビューすることにした。緊急事態宣⾔下ということもあり、Zoom経由で話を伺った。

「政治への意識が⾼かった」

 東村先⽣が⼤学2年⽣だった1968年、社会学部はキャンパスを天六から千⾥⼭に移転した。当時の学⽣たちの講義への出席率は低く、⾃分がしたいことをやっている⼈が大勢いたそうだ。また、世の中の問題に対して意⾒を持ち、⾃分から何事も進んで動く学⽣が多い時代だったからこそ、多くの学⽣が政治に対して強い意識を持ち、実際に運動に参加した。
 当時、東村先⽣も周囲から勧誘されたが、運動に参加することはなかったという。理由として、⼀部暴徒化する学⽣に恐怖を感じ、歴史的に⾒て無秩序な集団を統制する⼿⽴てはなく、暴⼒では何も解決できないと考えていたからだそうだ。実際に関⻄⼤学では暴動が起き、多くの負傷者が出た。そんな⽇本全国の⼤学で起きた⼤学紛争だが、1972年に連合⾚軍が⼈質をとって⽴てこもった「あさま⼭荘事件」以降、その動きは下⽕になっていった。この事件をきっかけに関⻄⼤学でも学⽣の様⼦が一変し、⼤学紛争以前2割を下回るほどだった講義への出席率も、9割を超えるようになったという。東村先⽣はこの変化について「現実的に考える⼈が増えたからではないか」と述べた。というのも、「社会を変えたい」という思いをきっかけで始まった⼤学紛争だが、暴⼒⾏為が次第に⽀持されなくなり、社会問題に対して現実的に捉える学⽣が増えた。こうして、関⻄⼤学でも⼤学紛争は終焉を迎えた。
 インタビューの最後に、私たちの⽬的である「和」の像について東村先⽣に質問をすると、「聞いたことがないです」と語った。関⼤の⼤学紛争をきっかけとして作られた「和」の像は当時の学⽣の間でも、その存在は知られていなかったという。
 「和」の像に関して東村先⽣は、「あくまで個⼈的な意⾒」と前置きした上で、「学⽣紛争で⼈と⼈との和が乱れたため、争いが⼆度と起きないようにという思いがあったのでないか」と述べた。東村先⽣は関⻄⼤学を卒業した後も、2020年まで教員として勤めてきたが、「和」の像の存在をほとんど認識していなかったそうだ。「和」の像が⼤学紛争と本当に関係があったのか分からないまま、インタビューは終わった。「和」の像と大学紛争の関係について疑問が深まる結果となった。

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「和」の像についてもっと知りたい

 東村先生への取材を通して当時の社会状況を理解することができたが、肝心の「和」の像については進展がなかった。「和」の像を知るにあたってこれまでの情報だけでは真相にたどり着けず、「和」の像建立の由縁が、本当に荒廃した学内に「和」を再認識してもらおうとした思いで作られたものなのか分からなかった。当時大学紛争を経験し、「和」の像についても知っている人物に話を聞く必要がある。「和」の像の真相以前に、まず取材に該当する人物はいるのだろうか。どこで情報収集すればよいのすら分からず、行き詰まった。
 しかし、よく考えてみると「和」の像建立の経緯は、関⻄大学の歴史でもある。関⻄大学の歴史資料を保管している職員ならば何か知っているのでないか。本人は知らなくとも、詳しい人物を紹介してくれるのではないか。どちらにしても何か手がかりが見つかるかもしれないと思い、関⻄大学の図書館や博物館など歴史がわかりそうなところに足を運び、関⻄大学博物館内の年史編纂室で学芸員をされている伊藤信明さんと出会った。伊藤さんはこれから「和」の像解明に大きく手助けしてくれることとなる。

前理事⻑・池内啓三さんとの出会い

 伊藤さんは、「和」の像に関する小さな記事まで必死に探してくれた。また関⻄大学前理事⻑で、当時の職員である池内啓三さんを紹介してくれた。とうとう私たちは「和」の像についてよく知る人物の手がかりを掴むことができた。すぐに伊藤さん協力のもと、取材の約束をこぎつけた。取材は伊藤さんも同席のもと、関大会館で行われた。池内さんは、この日のため自分の持つ資料を見直し、『関⻄大学百年史』も読み返すなど相当な準備をして臨んでくれた。「社会学部の前身である文学部新聞学科卒業だから君たちの大先輩だよ」という話から始まり、気さくに話を進めてくれた。
 池内さんは大学紛争当時、体育館事務職員を務め、像建立の1970年には就職部(現・キャリアセンター)で学生と距離の近い部署に所属し、紛争の前線で対応にあたっていた。したがって当時の大学の様子、学内関係者・役員たちによる懸命な対応の様子を伺うことができた。しかし、池内さんでも「和」の像に関することは詳しく分からないという。完成したことも知らず、「気づけば建っていた感覚」だと語った。池内さんに像が事務職員の寄付によって建てられたことを伝えると、「そうだとするときっと僕も寄付していただろう。でも記憶になくてね」と話す。当時は大学紛争が激しく、像どころではなかったのだろうか。

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 この日もっとも驚いたのは、年史編纂室の伊藤さんが取材のために、集めてくれた資料だった。校友会機関紙の『関大』昭和46年1月1日発行第184号によると「和」の像は「関⻄大学創立80周年を記念し記念碑建立」と記載されていた。この像は80周年を記念して大学にシンボルとして建てられたものだった。シンボルを決定するまでに、絵画、壁画、 植樹、造園などさまざまな案を2年あまり検討し、最終的に彫刻家・新谷秀夫によって「和」の像が制作された。「和」という文字を芸術作品として立体的にすることは決して容易なことではない。『関⻄大学通信』昭和50年6月16日発行第57号では「和」の像について、「和」のノギヘンをかたどるためにいくつかのくぼみや、ツクリの部分がまろやかな口型になっていることにも製作者の苦悩がにじみ出ていると記載され、力を入れて完成させた作品であることが伺えた。またこの記事に添付されていた写真には、激しい大学紛争が行われていることなど少しも感じさせない華やかな式が行われている。
 「和」の像は大学紛争によって荒廃した学内に人の「和」を、という想いいで作られたわけではなかったのか。ここまで調べたことが根本的に覆される衝撃の事実であった。

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取材から見えた関西大学の歴史と、それぞれの背景にあった「和」

 5月末、すべての取材を終えた。結局のところ、私たちの求めていた「和」の像と「大学紛争」の関係を掴み取ることはできなかった。「和」の像は関西大学で大学紛争が起こる前の、1965年から計画されている。どうやら公式ホームページには、像が完成に至るまでに大学紛争が起こったため、本来の意図である関西大学創立80周年記念とは違う内容が記載されているようだ。これは予想外の結果であった。しかし、取材を進めていくなかで分かったことがある。
 東村先生の取材で、大津事件の話があった。1891年、訪日中のロシア皇太子・ニコライが、滋賀県滋賀郡大津町で、警備にあたっていた警察官・津田三蔵に斬りつけられ負傷したという事件である。ロシアの国力を恐れた日本政府は、この事件に日本の皇族に対する犯罪(大逆罪)を適用し、津田を死刑にするよう裁判に干渉した。しかし当時の大審院長の児島惟謙が政府の干渉に粘り強く抵抗したことで、大審院は大逆罪ではなく普通謀殺未遂罪を適用し、津田は無期徒刑とされた。司法権の独立の維持に貢献した児島は「護法の神様」と高く評価され、大津事件は三権分立の意識を日本に広めた近代日本史における重要事件となった。この事件の中心にいた児島惟謙こそ、関西大学の前身・関西法律学校設立者の一人なのだ。1947年に書かれた関西大学建学の精神「正義を権力から衛れ」とは、当時学長であった岩崎卯一が、児島の行動から「正義の権力よりの守護」を学ばなければいけない、と示した言葉である。関西大学は設立当初から、「和」を大事にしているのだろう、と東村先生は語った。
 東村先生は大学紛争時の職員に対して、「職員から不利益を被ったことはない、良くしていただいた」と話し、学生部の職員については「夜中まで大学紛争に正面から取り組んでいた」と振り返った。学生部の職員たちは学生が納得できるまで、たとえ夜遅くなっても学生に対応したそうだ。また、大学紛争の少し前に起きた成田闘争では、投獄された関大生の身元保証人となったのは当時の社会学部主任の先生であった。学内で争いが起きていたことは事実だが、関西大学は学生を手放すことは決してしなかったという。関大生を守るのは関西大学である、という姿勢を、東村先生は「関大一家」という言葉で表した。
 関西法律学校の創立と大学紛争。それぞれ背景は違えど関西大学が100年以上にわたり「和」とともにあり続けたことが分かった。それは、2022年に制定100年を迎える関西大学学歌の「自然の秀麗・人の親和」という一説からも見ることが出来る。前理事長の池内さんは、こう話す。「関西大学は結束感を戒めにしているんやと思う。130年という長い歴史があって、数多くの卒業生がいることが関大の特徴やと思う。人生の中で18歳から22歳は大きな機転となる時期だし、その時期を関大で過ごした学生の結束感は強い。社会に出ても同窓としての輪を結んでいけることは関大生としての誇りとして、これからも大事にしなあかんと思っています」。
 約50年の時間が経ち、今でも関西大学会館前に立っているこの像に注目した結果、関西大学が歩んだ歴史の一部を体験することができた。銅像の存在が元教員だった東村先生と、元職員で前理事長の池内さんと私たちを結びつけ、多くの発見につながった。一つの純粋な疑問が、世代を超えて人を結びつけたことは、関大生として誇るべきものだろう。

後日談 〜ホームページの真相〜

 記事構成がひと段落した6月頭、「和」の像と大学紛争の直接的なつながりはないのに、なぜホームページでは結びつけて記載されているのだろうと疑問に思った。もしかするとホームページの記述を改変できるかもしれないという微かな希望も込めて、関西大学広報課にメールで尋ねてみた。
 返ってきたメールの文頭には、「関西大学年史編纂室の伊藤と申します」とあり、「ウェブページ担当者に確認をしますので少し時間を頂戴したいと存じます」と続いている。なんとページを作成したのは年史編纂室で、回答を送ってくれたのは伊藤さんだった。慌てて池内さんのインタビュー時の感謝文を添えて返信をした。奇妙な縁を感じながらも、「和の像」が持つ本当の意味について思いを馳せ、返信を待った。
 後日、伊藤さんから返信があった。「和の像は、本学の創立80周年(1965年)を記念して計画されたものですが、実際に建立、除幕が行われたのは、1970年11月になります。この間、1969年に本学では大学紛争が起こり、当時のお金で1億円を超える物的被害と、多数の負傷者を出しています。解説文に『1969(昭和44)年の大学紛争で荒廃した学内に』とあるのは、この事情を説明したものです。彫像のモチーフとして『和』の文字が選ばれたことには、本学学歌にも『自然の秀麗、人の親和』とありますので、広い意味で『和』を再認識してほしいとの思いが込められているのだと考えられます」。
 「和の像」と大学紛争が直接関係していないことは事実である。しかし、「和」の像が計画された1965年から華やかな除幕式を迎えた1970年までに、大学が崩壊する危機に陥ったというのも事実なのだ。「和」という温かな言葉から想像することはできないような壮絶な過去と結びつけることは、それほど大学紛争を経験した職員たちに多くの想いがあったのだろう。一時はホームページは間違っていたのだと思い、つまずいてしまった今回の記事制作だが、意外な寄り道を経て、「和」の像と大学紛争が結びついたのだ。

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(今西勇輔・岩崎日加留・木村泉美・秦優稀乃)