町の偉人ジョセフ・ヒコを伝え残す~播磨町の郷土愛~
私の生まれ育った町は兵庫県加古郡播磨町、県内で一番面積が小さな町だ。瀬戸内海に面し、町の古宮漁港からは埋め立てて作られた人工島の工場団地が見渡せる。この海で今から180年ほど前、波瀾万丈な物語は始まった。その物語は今も町で伝え残され、中でもジョセフ・ヒコという人物は町のシンボルとして町民から親しまれている。
ジョセフ・ヒコって誰やねん
「町外から来られた方はみんな言いますね。ジョセフ・ヒコって誰やねん、と」。播磨町郷土資料館館長の井上珠彦さんは、ジョセフ・ヒコについてこう語った。町の郷土資料館にはジョセフ・ヒコに関する資料が多く所蔵されており、毎年近隣の小学生が郷土の歴史を学ぶために訪れる。
「つぶやきが聞こえてくるときがあるね。ジョセフ・ヒコのところで立ち止まって、すごいことやっとる人やなぁって」。ジョセフ・ヒコと聞くと外国人の名前のように勘違いする人も多いが、幼名を彦太郎といい、現在の播磨町古宮で生まれた日本人だ。1850年、ヒコを含む17人が乗っていた栄力丸が破船し、50日間漂流した。その後、奇跡的にアメリカの商船に救助されてサンフランシスコへと渡った。彼らは異国の文化に触れ、日本に帰国後、多くの功績を残す。特にヒコは米国領事館の通訳として外交の最前線で活躍した。また、海外の情報を取り入れることが日本の発展につながると考えたヒコは、日本初の新聞である『海外新聞』を発行。この功績が称えられ、「新聞の父 ジョセフ・ヒコ」と呼ばれるようになった。
ヒコの持つ「日本初」はこれだけではない。日本人で初めてアメリカ市民権を取得したこと、初めて米国大統領と面会したこと、初めてダゲレオタイプで写真を撮られたことが挙げられる。歴史上の人物との絡みも多い。1862年にリンカーン大統領と会見、1867年には伊藤博文や木戸孝允らがヒコのもとを訪ね、民主主義について語り合ったという。
このように、ジョセフ・ヒコは多くの「日本初」を持つ偉大な人物だ。しかし、知名度は低い。「幕末の志士とか、いろんな人がドラマに出てるじゃないですか。なのにジョセフ・ヒコは出ないんですよ」と井上さんは首をかしげる。同じ漂流者としては、初めてアメリカ大陸に渡ったジョン万次郎に注目が集まっており、ヒコの存在は見過ごされがちだ。日米修好通商条約を締結したハリスの通訳者で有名なのはヒュースケンだけで、同じ時期に働いていたヒコの名前はめったに出てこない。
かつて播磨町の中学校で社会科の教員だった井上さんは、生徒たちの町探検を通してヒコを知り、郷土資料館で学芸員を勤めることになった。「播磨町は狭い町に人がいっぱいいて、いわゆるベッドタウンのイメージ。でも学芸員になって思ったことは、この狭い町内だからこそ文化財がたくさん見つかったのではないかということです」。町の歴史を知ることで、町への見方も変わったという。
「まずは町民に発信していって、ゆくゆくは全国に」。現在、郷土資料館が力を入れているのはホームページの充実だ。郷土資料館のホームページではヒコの活動を記した年表や、ヒコの生涯を子ども向けにわかりやすく紹介したアニメ「新聞の父ジョセフ・ヒコ物語」を見ることができる。最近ではヒコと新聞がデザインされた播磨町限定のマンホールカードが人気だ。マンホールカードとは、全国の多種多様なマンホールの柄を楽しむために作られたもので、現在カードは700種類以上に及んでいる。カードを集めるために町外から郷土資料館に来館するマンホールカードマニアもいるという。ちなみに新型コロナウイルスの影響については、「町内の学校が休校になっていた時期があるけど、あのときは逆に人が多過ぎてものすごかったですよ」と意外な答えが返ってきた。自粛期間中、他施設の多くは閉まってしまい、代わりに郷土資料館に足を運ぶ地元の人が増えたのだという。「かえって忙しくて大変だった」と語る井上さんの表情はとびきり嬉しそうだった。
郷土史に魅せられて
郷土資料館のヒコに関する資料を執筆したのは、播磨町の郷土史家、井上朋義さんである。井上朋義さんのお名前は、町のそこかしこで自然と見かけることができる。たとえば「はりま音頭」の作詞、ふるさと歴史カルタの製作、そして郷土の偉人についてまとめた本の数々。播磨町古田にある正願寺の住職を務めながら郷土史の研究を続け、2009年12月に逝去された。話を伺うことは叶わなかったが、朋義さんが自身を記録した遺稿抄を見させていただくとともに、息子の浩義さんにお話を伺うことができた。
朋義さんが郷土史に惹かれたきっかけは、美術展のコーナーで阿閇(あえ)村(現在の播磨町)の字名を解説するパネル展示を担当したことだ。その後、正願寺や地元について調べるようになった。「歴史に埋もれてしまってる人たちにスポットを当てて研究していた」と浩義さんは振り返る。町の有名人であったジョセフ・ヒコだけでなく、彼とともに栄力丸に乗り、アメリカに渡った町内出身の漂流者7名を調査していたという。
「偶然では割り切れない不思議な縁で、漂流に関する史料との出会いが続いた」。最初の出会いは1980年5月、ヒコと一緒に栄力丸に乗船していた清太郎について書かれた『八丈雑記藁』を、清太郎の子孫の方の家で見つける。「うちの父親はそれを見て驚いた。なんでかというと、清太郎は1年間に2回漂流し、生きて帰ってきていた」。その文書からは、清太郎がヒコとともに漂流する10ヶ月前、八丈島に漂流していたことがわかったのだ。しかし彼の災難はそれでは終わらない。その後の調査で、清太郎はアメリカから帰国後も、乗っていた船が嵐で座礁するという波乱に満ちた人生を送っていたことがわかった。しかも座礁した場所は八丈島で漂流したときと同じ遠州灘。朋義さんは「恨みの遠州灘」と題して清太郎の研究史料をまとめた。「うちの父親が夢中になって調べていた気持ちがよくわかります。ヒコの人生も面白いけど、栄力丸に乗っていた人それぞれにドラマがある」。
1981年には、朋義さんは長崎へ赴いた。ヒコとともに遭難し、もうすぐ上陸というところで病死してしまった安太郎の墓地を探すためだ。「長崎市大恩寺に仮埋葬された」という史料の記述を手がかりに探しはじめたものの、それらしい寺は見つからなかった。しかし、そのあとに寄った長崎県立図書館で、朋義さんは思いがけない出会いをする。「そのときの感激は、いまでも鮮やかに蘇ってくる。初めて目にする貴重な史料だ」。朋義さんの遺稿抄からも当時の興奮が伝わってくる。遠い長崎の地で見つけた蔵書には、栄力丸でヒコと一緒に旅をした乗組員たちの名前が並んでいた。もちろんそこには安太郎の字もあった。朋義さんは「あの文書は、きっと安太郎さんの力によって会わせてもらったに違いない」と何度も心の中で呟いたという。
八丈島、長崎、兵庫県坂越、南伊豆……、教科書には載っていない故郷のドラマを追い求め、さまざまな場所に調査に訪れた朋義さん。「古い本や同じように郷土史を調べている人に出会うことを、一つのライフワークとしていた」と浩義さんは言う。今も正願寺を訪れると、力強い文字で「怒濤を越えた男たち」と書かれた石碑が出迎えてくれる。この石碑はヒコら栄力丸乗組員が漂流してから150年経ったことを記念し、2000年の12月に建てられたものだ。石碑に刻まれた言葉からは、故郷の偉人に対する朋義さんの熱い思いが伝わってくる。
播磨町から広がるネットワーク
ジョセフ・ヒコが日本で初めて日本語の新聞を発行して150周年の2014年、播磨町郷土資料館では、新聞発行150周年記念特別展「ヒコの生涯と新聞史」が開催された。当時の郷土資料館館長であり、展覧会のプロジェクトを率いた宮柳靖さんに、記念特別展を開催するために奔走した5年間についてお話を聞いた。
宮柳さんがジョセフ・ヒコを知ったのは播磨町で教職に就いていたときだ。当時は郷土資料館でジョセフ・ヒコ関連の常設展示は行われていたものの、盛んにPRされている訳ではなかった。「ジョセフ・ヒコは日本全国に関わること。PRしないのはもったいない」。2009年、播磨町郷土資料館に勤めることになり、早速ジョセフ・ヒコをメインにした展覧会のために動き始めた。宮柳さんによると、展覧会には2パターンあるという。一つは美術展のような持ち回りの展覧会、そしてもう一つは研究成果を発表するための展覧会だ。宮柳さんは後者を選んだ。「過去のものを同じようなレベルで2回、3回するんじゃなくてね。展示する以上はしっかりヒコについて研究をして、新たな付加価値をつけた展覧会にしたい」。中には業務に加えてわざわざ研究をする必要はないという意見もあったが、宮柳さんの意思は固かった。
「1年、2年、3年目は正直なにしとるねん?って感じやねんな。周りから見たらさ。でも着実にネットワークを広げて、着実にいろんなものを収集してきた」。最初に宮柳さんが気になったのは、ジョセフ・ヒコに関連する団体はたくさんあるのに、播磨町とつながりが途切れてしまっているということだ。東京青山の外人墓地では、毎年ジョセフ・ヒコの墓前祭が行われている。しかし、20年前は播磨町も参加していたものの、10年前からは交流がなくなっていた。「僕の代から復活させてやろう」と宮柳さんは意気込んだ。墓前祭に参加したことをきっかけに、新聞資料研究会や「ジョセフ彦記念会」とのつながりも生まれた。特に新聞資料研究会の代表者とは懇意な仲となり、「宮柳さんがいるなら」と、展覧会に合わせて貴重な新聞資料を郷土資料館に寄贈してくれた。「きっかけを大事に大事に温めて、地道に積み重ねた努力が花開いたんや」。嬉しさがこみ上げた。展覧会には新聞資料研究会を始め日本カメラ博物館、横浜美術館、明治大学など各地からさまざまな資料が集まった。
展覧会開催の日が近づいてくると、館内に展示物をセッティングしていく作業を行う。「なかなか表からは見えへんけど、展覧会の2週間前はほんとバタバタ」。徹夜はもちろん、資料館の机で寝たこともあったと語る。どうすれば見やすいか、わかりやすいか。展覧会が始まったあとも、観覧者の意見を取り入れて試行錯誤を繰り返した。こうした努力の甲斐あって、新聞発行150周年記念特別展「ヒコの生涯と新聞史」には50日間で1万6000人以上が来館し、過去最多の観覧者数を記録した。また、同年、宮柳さんは「文化遺産散策マップ」を製作し、山陽電車とタイアップしてヒコゆかりの地を散策するツアーを開催した。その企画も500名近くが参加する大人気企画となった。11月にはハワイジョセフ・ヒコ研究会と協力し、「ハワイにおけるヒコの足跡と歴史的かかわり」をテーマに記念講演会を行った。新聞や地元のテレビ局に取りあげてもらう機会も増え、ジョセフ・ヒコを全国にPRすることができた。
集大成となる展覧会を終え、宮柳さんは2015年に郷土資料館を去った。現在は三木市で教師をしている。「あの時はようやったと思う。今しろと言われたらもうできない」と当時を振り返る。5年間の活動記録は館報にまとめられ、分厚い図録とともに各地に配布した。協力してもらった博物館や研究会に渡すのはもちろんのこと、国立国会図書館や海外の博物館にも配ったという。宮柳さんは「今から思たら一人だけの成果じゃないねん。熱意あるスタッフや、いろんな人の協力があったおかげや」と笑顔を見せた。
ヒコを伝える 町を伝える
今回、私はジョセフ・ヒコを伝え残す活動をしている3人の方について取材した。それぞれにヒコへの思い入れがあり、同時に、町への郷土愛を感じることができた。郷土資料館の井上さん、元館長の宮柳さんからは、「播磨町は文化財の宝庫」という言葉を教えていただいた。小さな町だからこそ、たくさんの文化財が見つかり、一度にいろんな文化財を見て回ることができる。それが播磨町の強みだ。故井上朋義さんからは、播磨町の郷土史に隠された壮大なドラマを教えてもらった。最近は播磨町の海を見るとなんだか感慨深い気持ちになる。ジョセフ・ヒコたち町の偉人を知ることは、播磨町そのものを見直すきっかけにもなった。
毎年、多くの若者が進学や就職を機に播磨町を離れていく。彼らの心に、故郷はどんな風に映っているだろうか。テレビであまり取り上げられない播磨町、スタバは一つもないし、映えスポットもない、田んぼと住宅地しかない播磨町。そんな風に思い出す人もいるかもしれない。しかし「何もない」と言う前に、まず播磨町のことを知ろうとしてほしい。興味を持ってほしい。そうすれば、きっとこれまで知らなかった町の物語と出会うことができるはずだ。「播磨町って何がある?」そう聞かれたら、私は自信と愛着を持って答えたい。「播磨町はジョセフ・ヒコが生まれた町やで!」と。
(藤川千尋)