一つの個性としてのトランスジェンダー
現在、同性婚および同性パートナーシップなどLGBTQ(以下性的少数者)の権利を保障する制度を導入した国と地域は、スウェーデンやノルウェーなどのヨーロッパの国々で導入され、世界中の約24%に及んでいる。世界では少しずつ性的な多様性が認められてきているようにも感じる。例えば、近年性的少数者のファッションや生き方も含めジェンダーの垣根が消えつつあり、同性婚やパートナー制度といった言葉を聞く機会も増えた。
LGBTQ総合研究所の統計によると、2019年に日本国内におけるLGBTQの認知率は91%にのぼるが、その一方で、内容まで理解した人は57.1%に留まっている。つまり、LGBTQという言葉は知っているものの当事者の実態を掴めていない人が多く存在している。LGBTQの中でもとくにT(トランスジェンダー)は他のL(レズビアン)、G(ゲイ)、B(バイセクシュアル)に比べて内容の認知率は28.0%と圧倒的に低い。また、2018年に電通ダイバーシティ・ラボが全国約7万人に調査を実施した結果、LGBTQに該当する人が8.9%(11人に1人)いることが分かり、そのなかでもトランスジェンダーは14%と性的少数者の中でもさらに少数者である。
トランスジェンダーとは生まれ育てられた性とは異なる性を生きようとする人びと全般を指す。現在、男性から女性、女性から男性になったトランスジェンダーが徐々に表舞台に立つようになったが、マスメディアではトランスジェンダーは依然として「オカマ」や「オネェ」といった「普通ではない」存在として描かれることが多い。近年、性の多様化の動きが地方自治体や企業などから多く見受けられるなかで、トランスジェンダーの当事者はこうした社会の認知についてどう考えているのか、リアルな声を聞いた。
男性として生きていくことを決意
愛知県在住の伊藤空(仮名)さんは、女性から男性へとトランジションを行ったトランスジェンダー男性である。関西大学大学院を修了後、愛知県にある建設会社に就職した。伊藤さんが自分の性に違和感を持ち始めたのは、中学生の頃だった。小学校までは私服で学校に通っていたが、中学入学後、学校指定の制服を着るよう告げられた。その際、女子生徒の制服を着ることに嫌悪感を抱き、「男性として見られたい、男性として生きて行きたい」と思うようになったという。
しかし、そうはいったものの当時の環境が決意を鈍らせた。彼は学内で1、2番を争うほど厳しい部活動と言われていた、女子ホッケー部に所属し、「ホッケー部の伊藤」と周囲の人たちから認識されていたからだ。学校を代表するような部活の生徒が一人だけ制服を着ていないというのは、周囲の期待に反することのように感じていた。そのため、伊藤さんは周りの人に自分の心の性を打ち明けることなく、所属する集団の中で求められるような振る舞い方を選択し、スカートを履き続けた。
トランスジェンダーの人が自分の心の性として生きていくにはいくつか越えなければならないハードルがある。高校に進学してからも中学と同じように過ごした。彼は性的志向が男性であり、高校時代にはお付き合いしている女性がいた。伊藤さんは当時周りの人に自分が女子とお付き合いをしていることを伝えていた。そうした日々の振る舞いや言動から、周囲の人たちに周りの女の子と違っていると思われていた。
伊藤さんは高校2年生の冬ごろに高校卒業後の進路を決める中で、家族に自分自身のなりたい姿を打ち明け、抱えている悩みを理解して欲しいという思いからカミングアウトを決めた。家族以外の人にはカミングアウトするつもりはなかったが、「私は性別適合手術を受けて男性に性別を変更する意思があります」と伝えた。自分の娘が男性として生きて行くことを聞いたらきっと困惑するだろうと思っていたが、母親から返ってきた言葉は「だと思った」という軽い感じのものだった。
母親は伊藤さんが昔からスカートを履きたがらなかったことや、ピンクや赤色のランドセルを嫌がっていたことを知っており、男性として生きて行きたい思いはずいぶん前から気づいていたという。その他の家族も、カミングアウトに嫌悪感を示さず、尊重してくれた。伊藤さんによると、カミングアウトに対してこのように受け入れてくれた自身の家族が特別だという。カミングアウトをしたことで家族と疎遠になり、裁判沙汰の末に絶縁状態になった人たちもいる。
伊藤空さん(本人提供)
性別適合手術とその後
トランスジェンダーの人が体の性を心の性に合わせるために行う手術は、性別適合手術という。これまで性転換手術と呼ばれていたが、名称に関して差別的な意味合いが含まれていたことから現在の名称に変更された。伊藤さんも性別適合手術を大学院生時代に経験している。大学院入学後からホルモン療法を始め、卒業までに氏名の変更も行った。
性別適合手術のメリットは主に二つある。一つ目は、自分の心の性と体の性を一致させることで、大きな悩みを解消することができる。二つ目は戸籍に記載される氏名の変更が可能となる。日本では同性婚を禁止されていることから、結婚願望のある当事者が性別を変更せざるを得ない場合も多い。性別適合手術を行うと戸籍の変更ができるため、当事者の多くは手術することを望む。
しかし、高額な手術費が壁となっている。近年、SNS上でトランスジェンダーの当事者同士のコミュニティが成長し、若者もカミングアウトしやすくなってきたが、金銭的に余裕がない場合が多く、手術を受けることができるのは一部の人に限られている。
無事に性別適合手術を終えた伊藤さんは修士2年生の時に、自分の名前を女性名から男性名へと変更した。氏名の変更は、裁判所に変更届を出して承認をもらうことで可能となる。変更の条件を満たしていた伊藤さんは、書類を提出し、裁判所事務官、裁判官の3人で提出した資料をもとに話をしただけで名前の変更が認められた。
戸籍上の氏名を変更する際、新しく使用する名前について、自分が使用したいと思っている氏名を名刺や郵便物などに氏名の変更前から使用し手元に残しておくことで氏名の変更がスムーズにいく。使用したいと思っていた名前をあらかじめ何年間使っておく必要があり、「芸名のようなものだ」と伊藤さんは語った。トランスジェンダーを理由に改名する場合でも、通称名を使用していることが重要であり、実績としてあらかじめ自分の名前がついたものを保管するのは一苦労のように思える。
これからの世の中に求めること
大学院修了後に就職した伊藤さんは、職場では自身がトランスジェンダーであることについてごく一部の人にしか明かしていない。もともと職場の人には伝えるつもりはなかったが、入社時に会社側から健康診断表の提出を求められた際に、一部の人に事情を伝えなければならなかったという。伊藤さんは就職活動の際、一貫して男性名を使っていたが、当時は名前の変更が受理される前で、その旨を会社に説明する必要があった。そこで伊藤さんは、人事担当者に自分の性自認のことや男性として書類を通して欲しいことを伝えた。人事からは特に問題はなく、今後伊藤さん自身が会社内でカミングアウトするかしないかを決めてほしいと言われたという。そうした会社の方針もあり、伊藤さん自身今後カミングアウトを行う予定はない。職場へのカミングアウトは家族へのものと比べてハードルが高い。また、業務に関係ないことを自ら進んで伝える必要もないため、人事の言葉のように伊藤さん自身が話したいと思ったときに話す姿勢を続けていくことが望まれる。
伊藤さんに今後性的少数者を取り巻く環境はどうあって欲しいかについて尋ねると、「多様性を認める国を目指して欲しい」という答えが返ってきた。同性婚ができる国では仲良い友人以外にも自分の性自認について話すことができる。「トランスジェンダーの人を異質な存在として排除するのではなく、左利きの人が存在することと同じ感覚で接する人が多くなればいいのではないか」。そう語る伊藤さんは、特別扱いをするのではなく、一つの個性として日本社会が当事者を受け入れてくれる社会になることを望んでいる。
多様性を認める社会を実現するためには、国民一人一人の正しい理解が必要である。人びとの情報伝達を支えるマスメディアにおけるトランスジェンダーの描き方について話を伺うと、「意図的に接しないようにしている」と前置きした上で、「マジョリティが創り出したトランスジェンダー像を大衆のイメージに植え付けることはとても不愉快」と述べた。マスメディアは依然として大きな力を持っており、人々の認知行動に大きな影響を与える。当事者は具体的にどのようなことに不愉快さを感じるのか。伊藤さんは当事者が可哀想な存在として、社会的弱者として描かれることによって、人びとに認知されることに不満を抱いている。「トランスジェンダーとして生活する中で大変なことは多いが、当事者でしか得ることのできない体験もある。当事者を一括りにして欲しくない」と語る。拡散力を持つマスメディアが偏ったイメージを大衆に植え付ける。当事者の多くはそんなマスメディアの描き方に不満を抱いている。現実の当事者は多様で、必ずしも不幸なわけではない。結婚して子どもを持っている人もいる。一方で家庭を持たずに幸せに生きている人もいる。そうした現実がある中で「トランスジェンダー」という生き方を理解するようになるだけで、社会は変わる。(今西勇輔)