あーちゃんは自閉症~みつけた姉の新たな一面~
「お風呂あがる時シャンプー片づけてから出てきてね」。これは私が幼い頃から母に口うるさく言われた、我が家のルールの一つだ。私たちの家では、必ずシャンプーを脱衣所の籠の中に隠さなければならない。
私の姉「あーちゃん」こと伊原綾乃は、自閉症スペクトラム障害者だ。「自閉症」と聞くと、優れた才能の持ち主や、読んで字のごとく自分に閉じこもる人、というイメージを持たれがちだが、そのような人物ばかりではない。この障害は個人差が大きく、「自閉症」とひとくくりにできないのだ。あーちゃんの場合は臨機応変な対人関係が苦手で、自分の関心やペースの維持を最優先させたいという特徴がある。また、強いこだわりを持つため、自分のペースを乱されたときや何らかのイレギュラーな事案が発生した際はしばしばパニックを引き起こしてしまう。
冒頭で取り上げたシャンプーのこともその一つだ。お風呂場からシャンプーが片付けられていないというイレギュラーなことが起こると、あーちゃんはシャンプーの中身をすべて取り出して捨ててしまう。おそらく、通常ないはずのものが存在することでパニックが発生し、自分の目の前から取り除くために起こす行動だと思う。そのようなことを引き起こさないために、私たち家族はあーちゃん中心の生活をしてきた。それが幼い私には不満に感じることも少なくなかった。
家族全員で旅行したことはない。ましてや外食ですら数えるほどしか行ったことがない。運よく旅行に行けたとしても、家族全員ではなかった。なぜなら、誰か1人が家であーちゃんの面倒を見なければならないからである。そうしなければ、家から脱走してしまったり、家の中がぐちゃぐちゃになっていたりする。「どうして友だちの家族のように旅行に行けないのか、自由に過ごすことができないのか」。幼少期の私は、友だちの家族が羨ましく、そんなことばかり考えていた。また、母はあーちゃんにつきっきりの毎日だった。朝早くに起きて学校まで送り迎えをすると、帰宅後は夕食を作り、すぐパートに向かう。母の帰りは深夜になるため、幼い私はひとりで眠るのが怖かったのをよく覚えている。
友人に無神経な言葉をかけられたこともしばしばあった。親しくなった友人に姉が自閉症であることを話した時のことだった。返ってきた言葉は「そういうのあんまり人に言わないほうがいいよ」だった。ショックだった。「自閉症の姉がいることは話してはいけないことなのか」。確かにナイーブな話題なため、私自身も信頼する人にだけ話すようにしていたところはある。だからこそ、親しい友人に言われた一言は、余計ショックだった。この出来事以来、私は姉が自閉症であることを誰にも話さなくなった。友人に兄弟構成を聞かれて、嘘をついたこともある。友人に家に行きたいと言われて、何とかごまかして必死に話題を変えたこともある。そんな自分が情けなかった。
自閉症発覚。苦悩の中で見つけた希望
あーちゃんが産まれたのは1995年2月。阪神淡路大震災の約1ヶ月後だった。母が違和感を覚えたのは生後7か月ごろのことだったという。他の子に比べて、発育がゆっくりで、いつも空(くう)を見ているかのように目を合わさず、手のひらをひらひらさせながら、体は前後左右に揺れている。一日中泣いたり、怒ったりして夜も寝てくれない。この子は「何か違う」と心配になった母は、あーちゃんが2歳になったころ、児童相談所や病院に足を運んだ。そこで正式に「自閉症」と診断を受けたそうだ。「重度の発達遅滞で、発語はないでしょう」と医者から告げられた。「ちゃんと産んであげられなかった」と自分を責める母に、父が「綾乃は綾乃に代わりないからええ。綾乃らしく育っていってくれたらそれでええやん」と言ってくれたという。「その言葉は今でも支えになっている」と母は笑いながら私に話してくれた。
しかし、その後も母の苦悩は続いた。初めてあーちゃんを連れて公園に行ったときのことだった。公園には同世代の子供たちと母親が大勢いたが、あーちゃんは一緒には遊べなかった。ひとり公園の端をぐるぐる回り、葉っぱを凝視し続けるばかりで、他の子どもたちとの差に落ち込んだ。そんな環境下で、母とあーちゃんは馴染むことができず、次第に孤立していったという。一方で、児童相談所では仲間ができた。同じ悩みを抱える母親たちと出会い、その思いを共有できることに心底救われたという。母はその時代に出会った友人とは今でも仲が良く、「ずっと暗いトンネルを歩いていたけど、その時やっと抜け出せた」と語る。その3年後、次女が産まれ、さらに3年後末っ子の私が産まれた。私たち妹2人が会話する影響もあってか、しだいにあーちゃんは言葉を話し始めるようになったという。簡単な単語や、好きな音楽やCMのフレーズなどが出てくるようになった。基本的には人から言われたことのオウム返しだが、今では一日にあったことを一生懸命カタコトで話してくれて、簡単な会話をすることができる。「発語がないでしょう」という医者の診断をあーちゃんは打ち破ったのだ。
作業所でのあーちゃん
2013年4月からあーちゃんは、兵庫県神戸市にある「いかり共同作業所」で働いている。この施設は、「障害があっても働きたい」という障害のある方の思いと、「学校卒業後に外でひとりぼっちにさせたくない」という家族の願いのもと、1980年5月4日に無認可で設立されたのが始まりである。しかし、1995年の阪神淡路大震災で作業所は全壊。その経験から当時の従業員たちは障害のある人の命を守るために「社会福祉法人」になることの必要性を痛感した。その後、2001年に社会福祉法人を取得し、たくさんの人々からの支援で4階建ての作業所を建設した。今では10代から70代までの幅広い年齢層の人々がともに働いている。
あーちゃんの働きぶりを知るため、私は作業所まで足を運んだ。作業所の一日は午前9時から始まる。更衣を済ませた後、各班に分かれて各々の活動を行う。主な活動内容は、資源回収や弁当配達、ビーズ製品や紙すき製品の制作だ。私が訪れた日、あーちゃんは弁当配達をする予定だったが、作業所のスタッフの方の計らいで、私が見学しやすいように急遽紙すき製品の制作に変更された。正直、イレギュラーなことを受けいれるのに時間がかかるあーちゃんがパニックを起こしてしまうのではないか、と私は心配になった。でもそんなことは杞憂に過ぎなかった。
私が呆然としていると、「あーちゃんすんなり受け入れてくれたよ」と職員の川原千尋さんが笑顔で話しかけてくれた。川原さんの案内で施設を回ってみると、4階建ての1階部分はリビングのような作りになっており、その他の階には各班の作業エリアが設置されている。「班はどのような基準で分けているんですか」と川原さんに質問すると「人間関係です」、と予想外の答えが返ってきた。いかり共同作業所には、自閉症だけでなくさまざまな障害者の方が在籍している。障害が違えば、できることも違うので、各々の技量や適性を考慮して班分けを行っているのではないかと勝手に考えていた。この意外な回答を聞いて、正直、私は恥ずかしくなった。無意識の内に偏見を持って障害者の方々を見ていることに気づいたからだ。どこかで、障害のある方々は私たちと異なる感覚を持っているのではないかと思っていたのだ。しかし、そんなことはない。障害があっても、なくても人は人だ。人間関係の問題はどこにでも存在する。そんな当たり前のことに気付けていなかった自分が悲しかった。
あーちゃんの作業場所は最上階の4階にあった。私が訪れたとき、あーちゃんは私をちらっと一瞬見た後、すぐに何事もなかったかのように紙すき作業に視線を戻した。それからも頻繁に私のことをちらっと見ては作業に戻るあーちゃんを見て、川原さんと笑いあった。「あーちゃん気になってるんだね」。しかし、そんな姉を見ながら尊敬もした。以前なら、私が来たことでパニックを起こしたり、私に帰るよう促したりしてきていたと思う。でも今のあーちゃんは、気にしながらも作業に取り組むことができるまでになっていたからだ。こんなふうに変わることができたのは作業所の方々のサポートあってのことだろう。
問題児から希望を与える存在へ
入所当時のあーちゃんはなかなかの問題児だったようで、作業所に置いてある共同の冷蔵庫内の食べ物すべてに洗剤をかけてしまっていたこともあったという。このような行動をすることに理由がないわけではない。食べ物を見たら食べたくなってしまうから、それならば食べられない状態にしようと、洗剤をかけているのだ。これは、あーちゃんなりの自制なのである。そんな様子を見て、職員さんたちはあーちゃん専用のクーラーボックスを設置してくれた。そうして、食べていいものが明確になり、洗剤をかけることがなくなった。
作業所に到着したあーちゃんには今でも続くルーティンがある。まずトイレに行って、次にお茶を飲む。その後各階のトイレをすべて自分の目で見て確認する。入所当初はこの一連の流れをこなさないと納得がいかず、職員さんに手が出てしまうこともあったというが、入所から10年経ち、今では立ち入れないトイレがある場合はその階をとばして、次の階に進むという柔軟な対応ができるようになり、人に手を出すこともなくなった。この変化について、ずっとあーちゃんを見てきた川原さんは、「入所当初に比べて言葉が増えたからだと思う。自分の言葉が上手く言い表せない時はパニックになって手が出てしまうが、上手く気持ちを代弁してあげるようにしたら手が出なくなった」と話した。この言葉は驚きだった。私自身も幼少期から、あーちゃんがパニックになって手が出てしまう様子は何度も見てきた。でもずっとどうしてなのか疑問も持たずに「そういうものだ」と分かったつもりでいた。こんな解釈があったなんて。新たな発見だった。
そう話を聞いていると、「あーちゃんはいかりの希望の星だからね」と別の職員の方が現れた。この言葉は弁当配達時、実際にお客さんから言われたものらしい。いかり共同作業所では、火曜日と木曜日に児童デイサービスや兵庫障害者連絡協議会に弁当配達を行っている。入所当初のあーちゃんは配達先にあるホワイトボードの文字をすべて消さないと気が済まなかったり、配達先用の弁当の中身が気になり匂いを嗅いでしまったり、中身を投げてしまったりしたという。でも職員さんが根気よくサポートしてくれたおかげで今では落ち着いて弁当配達ができるようになった。そんなあーちゃんの様子を見て、配達先のお客さんが「じっくり取り組んでいけば人は変われるんだね。今がどんなに大変でも変われるんだね。分かってあげることが大事なんだね。綾乃さんは希望の星だね」と言葉をかけてくれたという。私はこんなふうに姉を見守ってくれている人がたくさんいること、こんな言葉をかけてくれている人がいることをまったく知らなかった。私が気づかない間に、姉はこんなにも多くの人に支えられ、人々に希望を与えるような存在になっていたのだ。
作業所を訪れてから、あーちゃんに対する見方が変わった。家で何をしていても、愛らしく見えるのだ。「おいしい」と言いながら食事をしている時、楽しそうに体を揺らしながら音楽を聴いている時、「ありがとう」と言ってくれる時、これまではごく普通の日常として捉えていた場面一つひとつが尊いことだと気づいた。姉の周りは温かい人で溢れている。職員さん、ともに働く利用者の方々、配達先の施設の方々、そしてもちろん私たち家族。そんな人々に支えられながら、姉なりに一歩ずつ前進し、その姿を見て希望を持ってくれる人までもがいる。そんなあーちゃんは私の誇りだ。(伊原望月)