第30話 スカウトとツーショット | 2022年10月
嘘をつくのは苦手だ、と果穂は思った。アンケート用紙を受け取った瞬間、自分がこれからやろうとしていることの実感が湧いて、後ろめたくなった。
果穂はいま、リフレクソロジストであることを隠して、リフレクソロジーを受けようとしていた。しかも純粋に施術を受けにきたのではない。こっそりとスカウトするためだ。
マンションの一室を借りてリフレクソロジーを行っている果穂のサロンは、常連客も増え、最近は果穂が細々とやっている動画配信を見たという人も来てくれるようになった。ありがたいことに、常に予約が埋まっている状態だ。もっと頻繁に受けたいというお客さんもいて、申し訳ない気持ちになるが、営業時間は平日の朝から夕方までと決めている。もうすぐ三歳になる息子とカメラマンの夫との時間も必要だからだ。
そこで果穂は思いついたのだ。夕方以降や土日の部屋が空いている時間にリフレをやってくれる人がいたら、時間外に受けたいお客さんに紹介できるし、部屋のレンタル料をもらって家賃の足しになる。それに、部屋が埋まれば時間外に働く可能性がゼロになり、そわそわしたり心が揺れたりせずにきちんと休めるようになるかもしれない。
思いつくといてもたってもいられなかった。部屋を貸すだけとはいえ、どうせなら、お客さんに紹介したくなるようなリフレクソロジストがいい。でも、募集をして面接や実技をしてテストするなんてことは、果穂には荷が重かった。かつて一緒に学んだ仲間は、それぞれ自分のサロンを持っていて貸サロンを必要としていない。そんなふうにいろいろ考えて、果穂は、自らスカウトすることにしたのだった。
レンタルサロンで土日だけリフレをやっている人を検索し、ホームページやインスタグラムを見て、雰囲気や考え方が合いそうかどうかの当たりをつけた。そして土曜日になるのを待ってここに来た。夫の剛には、リフレの勉強に行くと言った。一応、嘘はついていない。人のリフレを受けると勉強になる。
でも、アンケートの職業欄に「専業主婦」や「会社員」と書いてしまうことは、明らかな嘘だ。身分を隠してスカウトに来たのだから、想定しておくべき事態なのに、果穂はこんなにも自分が、嘘が下手だとは思わなかった。自分がリフレクソロジストではないと言ってしまうと、何だか本当になってしまいそうで嫌なのだ。
「難しい? フィーリングでいいよ。絵とか落書きとかでもいいから」
そう言って笑うのは、今日、果穂が密かにスカウトしにきたリフレクソロジストだ。「潤」と名乗っていた。
(絵でもいい……?)
果穂は改めて自分の手元を見る。アンケートの内容は、果穂が予想していたものとは全く違っていた。体調や職業や年齢を聞く項目が並んでいるのかと思ったのに、真っ白な紙の真ん中に線が引かれて、片方には「ビフォー」、もう片方には「アフター」と書いてあるだけだ。一番上には「今日はどうなりたいですか?」と質問が書いてあった。
(何も聞かれないんだ)
ほっとして、体から力が抜ける。こんなリフレがあってもいいのかもしれない。
(わたし、どうなりたいんだろう……)
紙を見つめる。そんなことを聞かれたのは初めてだ。
ビフォーのところに「緊張」と書いてみた。それからアフターの欄を見つめる。「安心」と書いてみる。さらに「広がった感じ」と続けて書いてみた。何だかリフレの事前アンケートではなく心理テストみたいだ。
「いいね、わかりやすいよ」
潤が横から覗きこんで笑う。
「じゃあ、ベッドに上がってもらおうかな」
フットバスから脚を引き抜き、タオルで拭う。ベッドに上がって息を吐く。緊張していることを告白したので、少し楽になった。
足に触れる手のひらが熱かった。潤の動きはてきぱきしていて無駄がない。それなのに慌てている感じが少しもしない。まとわりつかず、突き放さない。なんだかとても清々しいマッサージだ。癒されるというよりも整えられているという感じがした。
(ああ、この人だ)
と、果穂は思った。始まって三分で心が決まってしまった。果穂とはタイプが違うセラピストだ。潤の施術を気に入ってくれそうなお客さんの顔が何人も浮かぶ。まだ引き受けてくれるかどうかわからないのに、気持ちがはやる。でも、せっかくのリフレを堪能しないともったいないと思い直し、邪念を頭から振り払う。
(……いま、わたし、誰でもない人になっている)
果穂は目を閉じた。心地よかった。リフレクソロジストでもない、母でも妻でもない、ひとりの人間になったのは、いつぶりだろうか。
「やっぱり初めてだと、ちょっと緊張するよね。どんなものかわからないし」
深くて優しい声が果穂のまぶたにはらはらと落ちてきた。言わなきゃと果穂は思った。リフレを受けるのは初めてではない、と。もう黙っているのは限界だった。正体と目的を明かしてしまおうと思った。なのに、体が深いところまでリラックスしていて、なかなか声を出す気にならない。
「やっぱりうちは、どうしてもトランスジェンダーのお客さんが多いんだけど、そうじゃない方も歓迎だから」
「えっ?」
予想外の話が飛び出して、果穂は動揺した。目を開けて潤を見る。
(忘れてた……)
サロンのインスタグラムに、セラピストは男性の体を持って生まれ、性自認は女性のトランスジェンダーだと書いてあった。そんな人が身近にいない果穂は、それを見て、ちょっと驚いた。なのに、インスタの記事やコメントを読んでいくうちに、潤の考え方やお客さんとのやりとりに好感を持って、いつしか忘れていた。
「いえ、あの……緊張していたのはそうじゃないんです。ただ、わたしは、リフレの実力を見たくて……」
「リフレの実力?」
潤の目が面白そうに笑う。果穂の顔は熱くなる。実力を見たいだなんて、ずいぶん偉そうなセリフだ。果穂は慌てて、ここに来た目的をすっかり話した。潤は特に驚きもせず、静かに話を聞いている。そして、聞き終わると、「いいね。じゃあ、そうしよっかな」と言った。
「そうしようって……」
「サロン、貸してもらう」
「もう決めちゃうんですか?」
「うん、だって毎回レンタルサロンを探して予約を取る形式だと、急な予約とか受けられないし、お客さんも不便だから、他の手段を探してたんだよね」
ずいぶん軽やかな決断っぷりだった。果穂はあっけにとられながらも、感心する。
潤はスマートフォンを取り出して、自分のプライベートの連絡先を表示させた。
「近いうちに、お茶しよ」
「じゃあ。うちのサロンでお茶しませんか? 設備の説明もできるし」
「いいね。じゃあ、リフレの予約入れよ」
「え、そんなことしなくても。普通に来てくれたら」
「わたしも一緒の部屋でやるリフレクソロジストのリフレは、ちゃんと知っておきたいし」
「でも……」
「はい、笑って」
潤がいつのまにかスマホの自撮りカメラを構えていた。
「これからよろしく、果穂ちゃん」
言いながら、ツーショット写真を果穂に送る。くすぐったかった。果穂ちゃんなんて呼ばれるのは初めてだった。
「だけど、客として潜り込んでスカウトするなんて、大胆だよね。いつもそんな感じ?」
言われてみるとそうかもしれない。そもそも誰かをスカウトするために、身分を隠して潜り込むとか、アポなしでいきなり部屋を貸す話をもちかけるとか、どれをとっても普段の果穂ならやらない行動ばかりだった。
「……リフレに関しては、見境なくなるのかも」
と、果穂は言った。言いながら、自分を発見したような気持ちになった。
「いいね、そういうの。人生を引っ張ってくれる」
潤の言葉で、果穂の目の前が突然、開けた。
(わたし、リフレに人生を引っ張ってもらってるんだ……)
「人生を引っ張ってくれるものがあると、生きるのが面白くなるんだよね。いつもと違う人に出会わせてくれたり、いつもと違う景色を見せてくれたり、いつもと違う自分を発見できたり」
「確かに……」
心当たりがありすぎて、果穂は笑いたくなってくる。ずっと会社にいたら出会わなかった自分とたくさん出会ってきた。そして、以前より自分のことが好きになった。
「広がった?」
と、潤が尋ねた。果穂は自分がアンケートに書いた言葉を思い出して、うなずいた。
「つながって、広がった」
「そう、それはよかった」
潤が微笑んだ。心の底から安心してしまう笑顔だった。広がった先は、まだぼんやりとして見えない。見えないことは何だか怖い。ちょっとドキドキする。でも、少し楽しみだった。果穂は、自分を落ち着かせるために、ゆっくりと息を吐いた。