『ことばは光』、今のわたしにできること
かつて、1時間でもいいから机について毎日必ず原稿を書け、みたいな教えが大嫌いだった。小説というのは、そんなふうに工場で生産するみたいに、決まった時間に機械的に出てくるものじゃない。もっと自由で何も決めない状態で、書けると思ったときにだけ書くべきだ、などと思っていた。
そうしたら、いつまで経っても書けないんだな、これが。小説というのは今生きている世界と別の世界の時間を過ごすことなので、目の前の現実がつらくて逃避したいとか、締切に追われて書かないと社会的に死んでしまうとか、そんな追い詰められた状況にならないと書けない。少なくともわたしは。
子どものときはたぶん、現実の世界が退屈だったんだと思う。だから、小説の世界にずっといた。だけど今は仕事で忙しく、生きている世界の時間を必死でやりくりして、生活するためのお金を手に入れている。退屈をしている暇がない。
書くことが決まって書けると思ったら、毎日書き続けることはできる。問題はそこに持っていくまでの過程で、ただ机についていても、物語は生まれたりしない。去年は小説のための時間を確保してみたりしたけれど、それじゃダメだった。執筆時間を確保しても、普段からいろいろ考えていないと、書きだすことはできないことがわかった。
今年始めたこの日記に期待している。毎日毎日、今日はどんな小説活動をしたのかと自分に問う。それは小説を書くこととは何なのかを、考え続けることだと思う。
〈本日の小説活動〉
①スポーツジムに行った。筋トレマシンを少しずつした。大して筋トレになっていないだろうけど、肩や腕を大きく動かすだけでも、ずいぶん体にはいいことだと思う。物書き生活をしていると、すぐ、体のことを忘れる。体が健康でないと文章は書けないし、この体がないと世界とコミュニケーションすることができない。サウナに入って、水風呂に入って、自分の輪郭を確かめる。指先からつま先まで、血が流れているのを感じる。
無になって自分の体に戻ること、これもときどきやらないといけない、大切な小説活動だと思う。
②目も見えず耳も聞こえない盲ろう状態を生きる福島智さんのエッセイ『ことばは光』を読み終えた。ジムのおかげで体と気持ちがシンプルになったからか、前に半分読んだときよりも、ひとつひとつ染み込んでくる感じがした。受け取る自分の状態で、読書の体験は変わる。福島さんは東京大学の教授だ。点字の翻訳者がサポートをし、研究活動をしている。美しく優しく親しみやすい文章を読みながら、言葉があれば、目も耳も聞こえなくても、他の人や世界とつながることができるという、この本のタイトル『ことばは光』をかみしめた。
自分の気持ちを上手く言葉にできず、暗闇の中で苦しんでいる人もたくさんいる。文章が得意な人たちのためだけに書くのではなくて、読むのや書くのが苦手な人が、自分の光を持つことができるようになるお手伝いがしたくて、わたしは講座をしたり、大学の授業を引き受けたりしているんだなと気づいた。そう思ったら、わたしができることが、少し見えてきた。
わたしは、幼稚園で毎日泣いている子どもだったそうだ。毎日は大げさだろうとわたしは思うのだけど、母がそう言うのだ。毎日かどうかはあまり覚えていないけれど、なぜ泣いていたのか、その理由はおぼろげに覚えている。言いたいことが言えず、悔しくて、泣いていた。
本を読みまくって文章を書きまくって気がつけばわたしはたくさんの言葉を味方につけて自在に操れるようになって、楽しく人生を生きているけれど、ただ泣くことしかできなかった昔のわたしの、悔しさは、ずっと忘れないでいたいなと思った。