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自他ともに認める無名の小説家として

音楽朗読劇 READING HIGH「ベース・メタル」を観てきた。READING HIGHは5周年。2019年に朗読劇の演出を考えているときに、この公演を知ってDVDを買って見た。初めての公演のDVDを買って見るなんて、普段は絶対しないけれど、演出プランがそれほど追い詰められていたのです。

で、びっくりするほど、よかった。自分の公演が終わったあと、もう公演する予定もないし参考にする必要もないのに、東京まで行って公演を見てきた。とても広いホールの2階の後方席だったけれど、すみずみまで演者の魂が、言葉が、音楽が届いていた。大きなホールで演劇を見るととても消化不良になるのだけど(宝塚はコスパがよすぎて例外)、音楽と朗読劇にはそれがないと思った。どれだけ広い会場に人を入れても成り立つ。オペラと同じだ。

そして今日、初めての大阪公演ということで、見てきた。オリジナルの音楽、生演奏、アニメでよく聞いていた声優さんたちの生演技。世界観。そして何度も泣かされる脚本。ゴシックロマン。よかった。

わたしにとってはさまざまなジャンルのエンタメひっくるめて、一番没入できるエンタメだと思った。演者のしゃべるモードが変われば、場面も時間も変わる。紡ぐ言葉が景色を作る。世界は舞台の上にあるのではなく、わたしの心の中に立ち上がっていく。

こんなエンタメをわたしも作ってみたい、と強烈に思った。もしそんなことができて、観た人の心に残すことができたらと考えたら、有名な小説家になることを想像するより、本がベストセラーになることを想像するより、わくわくした。

それが舞台になるのか、朗読劇になるのか、映像になるのか、異分野融合の何かになるのかわからないけれど。小説家であることがベースにありながら、それだけではない何か。

商業ベースには乗らないだろうし、たくさんの人に届けられるわけでもない。「こんなことをやってみた」と挑戦して、その挑戦を一緒に楽しんでくれる人がいて、無理せず楽しく持続できるような、小さな規模のもの。

以前は舞台や演劇って少しの人にしか届けられなくて何て効率が悪いんだろうと思っていたのに、今はなぜか、そういうことをしたい。そういう濃い相互に影響のある空間でしができないことをして、そのエネルギーで、今までにないものを生み出したい。生み出して、その誕生を一緒に見届けてもらいたいし、やっている過程でいろいろな人に出会いたい。

自他ともに認める無名の小説家、という言葉が浮かんだ。以前なら自嘲するための言葉だったけれど、今は透明な言葉になった。

わたしは人から指図されたり縛られたりするのが一番嫌いで、時間や行動を決められるのも苦手だ。有名になったり、ベストセラーになったり、大勢の人たちから期待されたりすることは、どんどん縛られていくことのように思える。

無名の、透明な、小説家でいられたら、いいなと思った。そんなことを思うのは初めてだけど。わたしの言葉も行動も生き方も判断も、ライターとして書く文章も、すべて、透明な小説家であるわたしがつむいでいる。透明だけど、ちゃんと小説家でありさえすれば、わかる人にはわかると思う。何かが違うって思ってくれるかもしれない。

こんなふうに思えるようになったのは、ちゃんと自分の基準で好きなものとそうでないものを決められるようになったからかもしれない。有名な賞を取ろうが、テレビに出てようが、たくさんの人が良いと言おうが、わたしにとって良くないななものは良くない。逆に、たとえ、有名じゃなくても、多くの人に不評でも、わたしにとっては良いものもたくさんある。それがわかってきたから、承認欲求の中身が変わってきたのかもしれない。大勢に認められることにそれほど価値を見出せなくなった。(前も同じことを書いた記憶があるけど。悟りが一段階深く、より納得した感じ)

〈本日の小説活動〉
音楽朗読劇 READING HIGH「ベース・メタル」大阪公演を見てきた。すごかった。わたしの見たアニメで出演者を紹介すると、『鬼滅の刃』の堕姫を演じた沢城みゆきさん、『呪術廻戦』の両面宿儺を演じた諏訪部順一さん、『王様ランキング』のラピスを演じた元洋貴さん、『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』のポップを演じた豊永利行さん。
明日まで。当日券もあるそうで。あと、5月で東京で公演するそうです。


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