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「自信がない」という気持ちを分解して内訳を考えてみるとスッキリした話。

朝、起きたら、ライター仲間のさとゆみさんからメッセージが届いていた。

「自信」について考えて書いてみたから、よかったら読んでみて。

なぜこんなメッセージをくれたのかを手短に説明すると、さとゆみさんがウェブ上で毎日連載しているエッセイをまとめたZINEがクラファンで発売されていて、それを買うときに自分の悩みをメッセージで送ると、その悩みのアンサーになるようなエッセイを紹介してくれる、という企画に参加してですね、わたしは、「ライターに関しては自信がないとか思わないのに、小説に関しては自信がなくて、自分を信じられなくて、突き進めない…」みたいなことを文字数の許す限り、グチグチと書いて送ったわけです。そんなこと言われても、さとゆみさんも困るやろ!(笑)

…って思ってたけど、同じような悩みをさとゆみさんに託している人は、わたしのほかにもたくさんいたみたいで、今日のエッセイではそのことについて書いてあった。

自信、あったほうがいいのかなあ【さとゆみの今日もコレカラ/第427回】
※1日で消えるので本日12月30日限定で読めるリンクです。

さとゆみさんが考える、あった方がいいなと思う自信。それは、「自分への信頼」だ。

うまくいかないこともあるだろうけれど、全うするぞ。
うまくできるようになるまで、やめないぞ。
私はそれを自分に約束するぞ。
そして私はその約束を守る人間なのだぞ。

これは、成功することを確信しているという意味の「自信」とは、むしろ逆の感覚のように思う。
むしろ、成功しなくてもくじけないぞ、という感じ?

さとゆみの今日もコレカラ/第427回 より

これを読んで、パラパラと自分の心がほどけて解放されていくような気がした。そして、わたしが「ない」から「欲しい」と思っていたのは、一体何だったのだろうと我に返った。わたしは、どんな類の自信(=自分への信頼)を欲しいと思っているのだろうか。

10代20代のときは根拠もなく実績に裏付けされていない、謎の自信に満ち溢れていた。勢いと勘違い。それは若者の特権だと思う。でも40代の今は、失敗も成功も含めて、さまざまな経験をしている。

誰かに仕事を頼んだりするときは、その人の経歴とか人柄とか実績とかいろいろ見てから信頼するかどうかを決めるけれど、それと同じで、これまで自分がしていたことを客観的に眺めて、わたしの何を信頼できるのかを判断すれば、根拠のある自信(=自分への信頼)を見つけることができるのではないかと考えた。

そして、そんなふうに考えていたら、わたしはライター仕事だってイベント主催者だって講師だって、なにひとつ、「必ず成功させる」という意味での自信があったわけではなかったことに気がついた。毎回、無理無理無理…って思いながらやっている。ライターの仕事なんて、毎回そんなことわたしにできるわけがないって思いながらやっているし、講座も2日間連続でとか無理無理って思ったし、何なら毎回思っているし、着物と音楽とナレーターや役者の人たちと一緒に大きなホールでやることになった朗読劇も、ぎゃー、無理無理無理って思っていたし、自主制作の映画も映画の脚本なんて書いたことないし、ぎゃあぎゃあ内心叫びながら、でも毎回、何とかうまくいっている。何とかしてうまくいかせている。

無理無理って思うなら最初から引き受けなかったらいいのに、引き受けてしまうのは、わたしがわたしを信頼しているからだ。それはどんな信頼かと考えてみたら、引き受けたからには期待に応えてやり遂げるだろうという信頼だった。

無理無理無理って叫びながら、いつも涙目で走り続けているのに、まあそうは言っても最後にはちゃんとやり遂げるんでしょ?と心のどこかで思って、自分を信頼している。

思い返せば、何ひとつ、やすやすとできたことはない。そうなってしまうのは、はっきりと理由があって、わたし、やすやすとできそうなことには、まったく興味がわかないから、そもそも引き受けないのだー。

セルフ獅子の子崖落とし!自分で自分を崖から突き落としといて、大丈夫、ちゃんと登ってこれる、信じてるよって崖の上から見守るわたしがいる。どMなのか。いや、どSなのか。どっちだ。

でも、じゃあそれがなぜ小説に関しては適用されないかというと、わたしに小説に関する依頼をする人がいないからなのだと思う。

これまでの経験を思い返して、「まあそうは言っても最後にはちゃんとやり遂げるんでしょ?」が発動するためには、「寒竹さんならできるでしょ」と誰かが考えて、わたしに依頼することが必要だった。無茶ぶりすぎん?わたしでいいのか?って思うような案件を「寒竹さんならできるでしょ」と一点の曇りもないまなこで持ってきてくれる人がいる。このとき、その人はわたしを信頼していることになる。

持ってきた相手を信頼できるとき(その人の経験値や人を見る目や責任感や本気度や人柄などから判断する)、わたしは、その人のわたしへの信頼を信頼できる。つまり、その人の言うように、「わたしならできるかも」と思える。思うようにしている。それが信頼するということだから。

わたしにとっては、無茶ぶりと思える話でも、「できるでしょ」と思ってくれた人は、無茶ぶりとは思っていない。それに実際に「できた」わけで、その人は、わたしよりもわたしのことを分かっていたということになる。わたしは自分をいつでも過小評価しているということにもなる。

いつだって自信がない。ただ、信頼してくれた人を裏切らないという自信はあるみたい。

というわけで、小説の話に戻るんだけども、今わたしは野良作家で出版社から小説の依頼が来るような立場ではなく、小説に関して、誰もわたしを信頼して無茶ぶりをしてくれない。

ちょっと妄想タイムに入るけど、もし誰かが新聞連載しろとか、名だたるSF作家の中に混じってサイエンスライターとしてSF小説を書けとか、ドラマの脚本を書けとか、そういうことを、「寒竹ならやれる」とわたしを信頼してわたしに依頼したとしたら、わたしは絶対にやり遂げると思う。死に物狂いで。努力しまくって。

でも、そんな環境に今はなくて、誰もわたしを信頼して無茶ぶりをしてくれないのだから、わたしがわたしを信頼するしかない。誰かがわたしを信頼したから自分を信頼できる、のではなく、わたしがわたしを信頼する。これがわたしの欲しかった自信なのだと思った。

自信というものは、わたしがわたしにした信頼を裏切らないことでついていくものなんだろう。わたしはこれまで小説に関して、何度も何度も、わたしの信頼を裏切ってきた。〇〇賞に出すって言ったじゃない!!本を作って売るって言ったじゃない!!Kindle化するって言ったのに動いてないし!!そりゃ信頼されないし、自信なんてつくわけがない。

「寒竹さんならできるでしょ」って信頼してくれた人たち以上に、わたしは、「わたしならできるでしょ」って、わたしに思いたい。まずは、全面的にわたしはわたしからの信頼を失ってるので、小さなことからコツコツと、自分との約束をちゃんと守っていかなくては。

あともうひとつ、わたしに足りないのは、わたしを信頼するおおらかさ。もともと慎重すぎて人に仕事を任せることができない。しかも確実にできること、過去にやったことがあることしか頼めない。自分に対しては、さらに厳しい目で見てしまう。やったことないけど、わたしならできるんじゃない? って思えるようになりたいし、それに応えたい。

誰もわたしができると思っていないことを、わたしがわたしならできると信頼して始められたら、未来は面白くなるんじゃないかなあ。もちろん、勘違いだったり、途中過程はしょぼしょぼだったりするわけだけど、最終的にできればいいわけで。完璧じゃなくていいじゃない、いずれ、いいものになるための途中過程なんだから、肩の力抜いて、どんどんやっていこうと思った。

…というわけで、適当に描いた絵をトップ画に載せました(笑)


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