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物語の終わり方

小説講座をすると、毎回出てくる質問に「物語の終わりはどうすればいいんですか?」というものがある。いつ終わらせるのか、どうやって終わらせるのか、終わり方はどうすればいいのか。そう聞かれるとわたしは毎回一応真面目に考えてはみるのだけど、口から出てくる言葉は「よくわかりません」になる。わたしも毎回、どうやって終わらせればいいんだろうと思いながら、途方に暮れているからだ。

しかし、毎回聞かれるわけだし、曲がりなりにもわたしはたくさんの物語の終わりを書いてきたわけだし、もうちょっと真面目に考えてみようと思った。そして、ひとつだけ確実に言えることがあることに気がついた。

物語が終わらなければならない理由は、わたしの場合、いつも外部からやってくる。枚数が決められていたり、提出の期限が決められていたり、連載の回数が決まっていたり、連載している媒体が終了したりするから、終わらなくてはならない。もし、そういった外部からの要請がなかったとしたら、たとえばひとりでウェブ小説を書き続けていたとしたら、いつまでも書き続けるだろうかと想像してみたけれど、たぶん、将来的に本1冊になるように10万字くらいで終わろうとか、そういう計算をしてしまうと思う。紙の書籍が下火になって、電子書籍がメジャーになって「本1冊分の分量」というものが意味のないものになったとしたら、わたしはどうするだろうか。SNSに駄文を流し続けているように、書き続けるのだろうか。きっとそれは作品ではなくなると思う。記録ではあるかもしれないけれど。

それぞれの人生にそれぞれの終わりがあるように、それぞれの物語にとってふさわしい終わりがある。わたしはまだ自分がどうやって「終わり」に出会っているのか、言語化することができない。この物語にふさわしい終わりは何だろうと、ずっとずっと考えて考えて、考えるのをやめて、いろいろな物語の終わりをインプットしたりしてじたばたして、また考えて、あるときふっと「あ、そうだったのか」と思いつく。思いつくというより、出会うという言葉の方がふさわしい。出会ってしまうと、もうこれしかないなと思う。

そして、そうやって出会った終わりには、必ず、驚きと小さな感動の感触がある。登場人物が、はっとすることを言ったりする。

先日、11年間連載していた連作短編小説「ちょうどよいふたり」の最終話を書いた。正三という人物が自分の生前葬をやってみる話なのだけど、正三が、過去を振り返るのは未来のためだなんてことを言いだして、なるほどなあ、なんて思った。

自分で書いておいて「なるほど」じゃないだろう、と思うかもしれないけれど、わたしはいつも、自分の書いた小説の登場人物たちのセリフにハッとさせられる。それが面白くて物語を書いているのかもしれない。

物語がどう終わるのかは、その物語が知っている。ここまで書いたものを読み返して、作者の都合で変な力をかけたりしようとせず、心を開いて、考えるのではなく、感じ取る。敢えて言えば、これが物語の終わりを書くコツかもしれない。終わりだけではない。物語を紡ぐとき全てに言えるかもしれない。そんなふうにいられたら、作者がびっくりするような名言を、登場人物がこぼしてくれたりする。

ちょうどよいふたりの最終話を書いて、物語をつむぐことと、人生を生きることは、こんなにも似ているのかと思った。書きかけの物語を読み返すように過去を振り返って、構成や推敲を考えるように、今の自分に合わない物や不必要な行動を断捨離していって、変な力をかけずに、心を開いて感じ取ることができたら、何かとても良いものに出会えるような気がするな。

ひさびさに、このマガジンを更新してみました。



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