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漢文石碑めぐり vol7「吉田松陰、京都にて天皇を想う」その2
どーも!漢文マンです!
今回は、前回解読した幕末の偉人・吉田松陰の漢詩石碑の裏面を読んでいきます!
(前回の記事はコチラ↓)
裏面には、この石碑が建てられた経緯とそこに込められた思いが記されています。
それではさっそく見ていきましょう!!
〇石碑紹介「吉田松陰拝闕詩碑」(ウラ面)
1.基本情報
建立年や所在地は前回の記事に書いてますので割愛します。
今回解読する石碑の実物写真がコチラ↓
前回読んだオモテ面は吉田松陰の手書き文字を彫ったものでしたが、ウラ面は当時の政治家で書家だった野村素介という方の文字を彫ったものだそうです。
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茂みをかき分けてなんとか撮影できました。
2.どんな石碑なの?
冒頭でも触れましたが、ウラ面には、この石碑が建てられた経緯が詳細に記されています。
その文面と、そこに登場する人物から、石碑を建てた者たちの吉田松陰への思いが伝わって来るものとなっています
3.さあ、読んでみよう!
さて、それでは解読していきましょう!
京都の地に吉田松陰の漢詩の石碑が建てられた経緯とはどんなものだったのかでしょうか…?
是先師松陰吉田先生嘉永癸丑十月朔過京都拝禁闕詩真蹟也。
(是れ先師松陰吉田先生、嘉永癸丑十月朔、京都を過ぎ禁闕を拝して詩するの真蹟なり。)
-この石碑のオモテ面は、かつての師・吉田松陰先生が、嘉永6(1853)年10月1日、京都を訪れ、御所を拝した際に詩を詠んだ手書き文字そのものです。
初先師為山縣公爵厳父有稔翁書之、翁以伝公爵。
(初め先師、山縣公爵の厳父有稔翁の為に之を書し、翁以て公爵に伝ふ。)
-まず松陰先生は、山縣有朋公爵の厳格なるお父上である有稔さんのためにこの詩を書き記しました。それを有稔さんがご子息の有朋公爵にお渡しになったのです。
公爵謂「是先師精神之所鍾、豈蔵之私家乎。」因献於御府焉。
(公爵「是れ先師の精神の鍾むる所なり、豈に之れ私家に蔵めんや。」と謂ふ。因りて御府に献ず。)
-有朋公爵は「この書は松陰先生の精神がつまったものである。私が個人的に持っておくべきものではなかろう。」と思い、宮中に献納しました。
今茲戊申十月丁先師五十年忌辰、奏請得允撮影以頒同志者。
(今茲戊申十月、先師五十年忌辰に丁たりて、奏請して允しを得、撮影して以て同志者に頒く。)
-ことし明治41(1908)年10月は、松陰先生の五十回忌にあたるので、天皇にお願いし、許しを得て、書を撮影し仲間に配りました。
京都府教育会員相謀勒諸石、会長大森知府属余記其由、乃叙其梗概云。
(京都府教育会員相謀して諸石に勒さんとし、会長・大森知府、余に其の由を記すを属みて、乃ち其の梗概を叙すと云ふ。)
-京都府教育会員たちは、この書を石碑に刻むことを計画し、会長である大森鍾一京都府知事が私(筆者・野村靖)にこの碑文を記すことを依頼されたので、ここに経緯を記すものである。
明治四十一年十月
従二位勲一等子爵野村 靖撰
正三位勲一等男爵野村素介書
芳村茂承鐫
以下編集中…
おまけ
真蹟:本当にその人が書いたもの。ここでは吉田松陰の自筆の意。