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043 頭がいい人悪い人

頭のいい人わるい人

 今のところ、中学の数学で習う因数分解を実際の仕事で使う必要に迫られたことはない。それに今後も使うことはないだろう。そのほかの教科についても似たりよったりである。それ以降の高校・大学で学んだこともほとんど使うことがない。いまさらながらことわる必要がないくらいであり、そんなことは当の中学生ならだれでも知っていることである。 
 それに専門的な資格であっても、その試験内容が実務で役立つこともほとんどない。実務は多岐にわたるので、専門職種といえども担当する業務により必要な知識が違うのである。だから、ある分野に必要な専門的な知識を問うことですら到底不可能なのである。仮に細分化してその個別分野のことを試験にすれば、やたら試験の種類は増え、それは、いずれは個別の実務そのものになるだけなのである。
 頭のいい人と言われる人の特徴は、少しの情報でそこから傾向を探り、先読みして事前の準備をする人である。特徴は所属している社会の動向を探るところにある。それは社会善をいち早く察し、それに沿う努力をして、高評価得て、少しでも優位な位置につこうとすることにつながっている。その他人に対して優位に立とうとする意は集団生活をする幼児から児童にかけて発生する性向であり、だれもが経験していることである。
 努力により効力感を得ることだけを気にしているが、そのことで失うことを気にしていないのである。実際の仕事や生活に不要な物語を一時的に多く詰め込むことで明確に示していることがあるのである。それは是非もなく、どこをどうみてもただ所属社会に対する従属性の高さなのである。もし、本当にそれに気づかないのであれば、それはやっぱり頭の悪い人といえてしまう。
 それに高学歴や高スポーツ歴はなにも一方的に選択肢を広げ優位になることはない。大人になって反対側も考えるようになれば、そういって率先してやった努力こそが強い足枷となり、できないはずの自身を束縛することをしてしまうのである。その優位性とは、つまりその後の自由を縛る劣位性そのものなのである。具体的には会社や職種のイメージや年収などに固執することになるのである。すなわち、自分の仕事になんらかの社会的優位性を感じているのであれば、その前には必ずそれと同等の努力があり、それはもしかしたら不毛ではないかという恐れがあるのである。
 無論、頭のよさは、なにも悪ではない。それをうすうす感じても、ただ違うとし考えることを放棄すれば悪になるのである。頭の求める真を心で不要と誤魔化せば、その時点ではじめて邪悪になるのである。そして、その邪悪さであっても到底長続きさせることはできないのである。いずれは自身の発する声を聞くことになるのである。それはすでに心がうすうすでも気がついてしまっているから仕様がないことである。ただある程度時間をかけて頭の整理が必要なだけである。自己冒涜を長く続けるのは、不毛であり、かなり困難なことなのである。
 その時にその能力でその情報を得てその立場いれば、他に仕方の無かったことである。また、それは後悔に値することでもない。やらなければ後悔しそうだったことなのである。それをやる自身を知りたかっただけなのである。そしてそれを十分にやって知ったのである。ただそれだけである。それで仕舞である。
 関連付けや記憶の能力が高いのであれば、現状の自身の人生哲学をそこに留める必要はない。もっともっとと脳は求めているはずである。もう何も知りたくないと思うところまで、頭が欲する知りたいことを知ればいいだけである。大概の事は調べれば調べがつく時代なのである。そうすればあとは勝手に頭が仕事をするのである。それをするための能力が脳の未使用の七割の中に保存されているのである。
 再言するが、頭のいい人とは、しなければならないこと・すること(仕事)の条件整理が早い人である。少ない知識でもその中で本質を見つけほかの物事と関連づけが出来、仕事を進める方法を探し出す。目標に対して効果であげる質・量が多い。無駄の少ない合理的な生き方を目指すため、確固たるもの(自分より強い物事)を探し、それに沿って生きようとする。そして、それを大枠として考える。
 具体的には社会の善を察し、その方向に個人の良を見出し、その方向を自身の好みとする。考える出発点が自身ではなく所属する社会にとってなのである。そんな他人事を仕事にしていれば、どんどん仕事を進めることができる。行き詰ったらまた、違う手を考える。少し悩んでまた考える。だから問題はなくならず深刻化する。合理的なはずの自分に行き詰る。それでも、枠だけは問い直さない。きれいな枠に自分を収めようとする。そこには一種の滅びの美学がある。
 しかしどんなに収めようとしても枠に決して収まらない自分がある。それが自身の魂からの違和感であり、それが自身の自分たる由縁であり、自己尊厳なのである。人間の誰一人も何事にも従属できないのである。その枠を作ったのはほかならぬ自分自身である。
 自分以外の人間(社会)の気持ちを察するのは、それと自分自身の思いとの違いを知るためである。自分の異質性を知れば、相手の異質性も知ることになるのである。決して自分と同じものを探すのではないし、同化するためでもない。仮に同化してしまったら、互いの尊厳が穢れるだけである。
 枠を作るのは楽しい事ではない、まして枠に収めるのが楽しいはずもない。本当の楽しさは、その大切にしてきた枠を壊すところにある。本当の楽しみは恐怖の裏側、怒りの近くにある。なぜならそれは、架空の枠だから。
 そんなに大袈裟に考えなくていい。枠に違和感を感じるのは、枠が小さくなったのではない。それに納めている自分が大きくなっただけのだ。ただもう少し大きな枠にすればいいだけである。

#小さなカタストロフィ
#microcatastrophe

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