062 大事に出来ない大事
子供は大事である。
だから子供を大事にする。
これで子供を大事にすることになるのだろうか。
会社が大事だからといって大事にすれば、大事にすることになるのだろうか。
家族を大事だからといって大事にすれば、大事にしたことになるのか。
地域を、国を、世界を大事だからといって大事にすれば、大事にできるのだろうか。
そもそも社会は、大事にされることを求めているのだろうか。
命が大事だからといって命を大事にすれば、命を大事にできるのか。
あなたが大事だからといってあなたを大事にすれば、あなたを大事にできるのか。
常識が大事、伝統が大事、文化が大事、幸福が大事、自由が大事、道徳が大事、地球が大事、プライドが大事、経歴が大事、お金が大事、時代が大事・・・
これらを大事にすれば、本当に大事にできるのだろうか。
それらは、大事にされることを欲しているのか。
こちら側の勝手な思い込みではないか。
単なるおせっかいではないか。
大事にしているのは、それらではなく、それを大事にする自分自身ではないか。
それらを大事にすることで、本当に自分自身を大事にすることになるのか。
間接的に自分に関わることでは、間接的な自分しか見えないのではないか。
自分は自身にとって間接的な存在なのか。
そういった勝手な位置づけに自分は怒りださないか。
怒りたいことが起こり怒れば、怒ったことになるのだろうか。
怒るとただ相手はわびを言ったり、逆切れするだけではないか。
怒った真意が伝われなければ、ただ無駄な怒りになるのではないか。
では怒りたい欲求を抑え克己すれば、克己したことになるのか。
まことの克己をせねば、ただの欲求不満になるだけではないか。
欲求不満は夢になり、ついには昼間に夢を見る人間になってしまうのではないか。
そこで、そうならぬようにまた克己が必要になるだけではないか。
怒りをうまく処理する教育を施せば、教育したことになるのか。
学ばされることを用意周到に仕向けられる教育で、真意は伝わるのか。
ただ用意周到に仕向けられる教育を欲する人間に教育することになるのではないか。
答えのある問題を解く練習は、答えのある問題だけを解く練習ではないか。
自らが欲する前に教育を受けさせれば、自らが欲する前に状況の変化を望むのではないか。
自らの発する自らの疑問に対して自らが学ぶ意欲をただ無くさせるだけではないか。
幼児期からの動機付けからの教育と洗脳との違いはどこにあるのか。
そもそも現在において教育の必要性は、どれだけあるのか。
教育とはその存在が社会(他人)の要請以外のなにものでもない。
教育とは、社会(不特定多数)に取って都合がいい人間に教育しようとすることである。
しかし教育をするほどに、都合の悪い人間が出来るのではないか。
ただ用意周到な教育ほど、その呪縛が解けたときの旨味は大きい。
なにかを大事だと思う。
そこでなにかを大事にする。
そうすると、そのなにかが大事、自分が小事となる。
自分が大事より下に付くことになり、大事が主、自分が従になる。
それが大事という常識はいつからのことか。
決して、自発ではない。
未開の地で育てば、そんなことを大事にしていない。
それでもなお、大事とすればやっと本当の大事になる。