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013 金のたまたま

だれでも心に金の玉を二つ持って生まれてくる。
たまたま二つ持って生まれてくる。
金の玉二つ。
平衡(バランスの取れた状態)だった。

物心が付く前に、知らない人の中に入れられた。
嫌で嫌でしょうが無かった。
散々泣いてみたが、なにも状況は変わらなかった。
だから泣くのを止め、状況を受け入れることにした。

その時、金の玉を一つ失った。
その代わりに銀の玉を一つもらった。

それから、色々なことを覚えた。
時々自分を抑えることも覚えた。
もう一つの金の玉を取られないようにするためであった。
取られてしまっては、生気を失ってしまう恐怖があった。

そのうちに、金の玉を隠すことを覚えた。
どうも、周りの人はそうしているようなのである。
金の玉はなにより大事である。
だから大事をとって心の奥にしまうことにした。

これで心は銀の玉一つになった。
端においてはバランスが悪いので銀の玉を中心に置く事にした。
そうしたら周りの雰囲気がよくわかるようになった。
周りの雰囲気を読み、期待に応えることができた。
その時、周りが喜ぶような気がした。
その時、銀の小玉をもらった。
悪い気はしなかった。

銀の小玉を集めも悪くないと思えた。
その気になって銀の小玉を集めた。
はじめは、結構簡単にもらえた。
しかし、だんだん、もらえなくなった。
だんだん、多く努力するようになった。
そうして得る銀の小玉は格別なものになっていった。

充実していた。
このまま行けば、小さな銀の玉で心を満たせるのではないかと思うようになった。
だからより一層、銀の小玉を真剣に集めた。
そのおかげで今では心の中心にある銀の玉の周りは、銀の小玉でいっぱいになった。
銀の小玉で銀の玉の姿は見えないほどである。

銀の小玉を集めてからは、他の人の銀の小玉数が気になるようになった。
多く集めている人も見るとすごいと感心した。
自分も頑張らねばと奮起した。
銀の小玉が少ないことは恥ずかしいこととなった。

銀の小玉、一つ一つ苦労して集めたものである。
一つ一つにしっかりした思い出がある。
全く実感として価値があるものなのである。
他人にとっても自分にとってもこんないいものは他にないはずである。

でも、ふとした瞬間に、疑問が生じる。
もしかしたら、銀の小玉だけを集めても心を一杯に満たせないのではないか。
だから今では、以前ほど真剣に努力して集めることもしなくなってしまった。
でも、他にすることもないので、時々銀の小玉だろうものを集めている。

それにしても不思議なことがある。
普通なら隠すはずの金の玉を時々あらわにしている人がいる。
まわりの雰囲気が読めない人なのであろう。
全く自己中心的であり、自分勝手な人間である。
法律は犯していないが明らかにマナー違反だ。
見てるこっちが恥ずかしくなる。
なんとならんものかと考えるほどに腹立たしくなる。

いやまてよ、そういえば、自分も金の玉を持っていた気がする。
金の玉を大事にしていたら、大事にしていたことを忘れてしまったようだ。
金の玉を一つ心の奥にしまっていることを。
その前に金の玉を一つ取られたことも。

もしかしたら腹立たしさは、うらやましさの裏返しか。
であれば、うらにあるやましさと何か。
金の玉を取られるのを恐れ、奥にしまったことか。
腹立たしいのは金の玉を見せている人ではなく、自分のふがいなさに対してなのか。

もともと大事にしていたのは金の玉である。
そのことを心は忘れていないようである。
心は銀の小玉だけでは満ちてくれない。
もともと金の玉二つで平衡だったのだから。

たまたま、ふたつあった。
「たまたま」とは「偶然」のことである。
「偶然」とは「運命」のことである。
「運命」を古くは「しあわせ」といった。
「たまたま」は「しあわせ」に通じている。

まったく心は傲慢である。
どんなに努力しても似たものでは、ごまかされないのである。
それに、ただ金の玉を元に戻せばいい、というものでもなさそうである。
心は既に銀の小玉の味も知っているからである。
それに、金に比べ控えめな銀の玉も悪くないのである。
混沌として厄介なことのように思える。

しかし、難しいことはない。
心には、金の玉、銀の玉、銀の小玉がある。
どれもこれも棄てがたいものである。
ただ乱雑においても、心は落ちつかない。
心を落ちつかせるように、バランスよく配置しよう。

中心の少し奥まったところに金の玉。
大事なものは、奥ゆかしく目立たないところがいい。
その少し前、向かって左側に銀の玉。
すこし、見せるくらいで、相手に安心感を与える。
その、もう少し前右側に銀の小玉を適当量こんもりと。
嫌味になれぬ最大限の量。
置き方は自由である。
自然に見えるように置いてみたい。

実際、奥にしまった金の玉を出すのは難儀なことである。
奥の間への入口は使われないうちに小さくなってしまっている。
そのままの大きさでは通せない。
無理に通せば、心が壊れてしまいそうである。
なので面倒でも小玉にして、少しづつ通すしかないのである。

あわせて銀の小玉の整理も必要である。
ただ、多ければいいというものではない。
銀の小玉が生きる個数と配置方があるのだ。
よくよく見れば、銀の小玉は大きさや形状も色々あるのである。

だから、まず集めた銀の小玉も好みのものを選ばなくてはならない。
それだけでも、相当に時間も思考力も必要である。
それに、不要とするものをだた棄てることもできない。
色々と思い出しながら、徐々に返すしかないのである。
それに必要で足らないものがあれば、新たに獲得しなくてはならないのである。

ほったらかしの銀の玉も錆びついてしまっている。
磨き直さなくては、見っともない。
金の玉と並んでもおかしくないように。
金の玉を中心に置けば、銀の玉も銀の小玉も活きてくるのである。

人が生まれつき持っている能力を才能という。
その才能は、明治の頃に英語のタレントの翻訳語として作られた言葉である。
だから人間が才能を持っていると見るのは日本では明治以降の新常識である。

英語においても才能という意味の言葉が早くからあったわけではない。
タレントの語源の意は、平衡(バランス)だったのである。
平衡から傾向・性向それから才能と意を変えているのである。
だから、もともと現在の意味での才能はどこにも無かったのである。

才能とはもともと平衡だったのである。
その平衡を何らかの傾向・性向に合わして変えたものが今の才能なのである。
才能の才能、才能の本質、才能の真の意味とは平衡にある。
今の才能とはなんらかの傾向・性向に変形した平衡の崩れた状態なのである。
だから以前の人間に比べ不安定な心理状態なのである。

人には生まれつき才能があるという見立ては、未開や自然の発想ではない。
なのに、他人や自身になんらかの才能が見える時がある。
それは、経験した社会の傾向や性向が頭を染めているということである。
才能をただ平衡と見るのが、以前の人間の常識だからである。

そうとわかれば、自分の表層がなにに染まっているか丸見えになる。

#microcatastrophe

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