036 五穀を食べるために自身を知る
五穀を食べるため、五穀を作る。
五穀を採り、五穀を調理して食べる。
五穀を食べるために、五穀を作る。
五穀を作れば、五穀を作ることを知る。
五穀を採れば、五穀を採ることを知る。
五穀を食べれば、五穀を食べることを知る。
だから五穀を作るとは、五穀を知ることである。
五穀を作ることを知るとは、五穀を作っている時の自身を知ることである。
五穀を採ることを知るとは、五穀を採っている時の自身を知ることである。
五穀を食べることを知るとは、五穀を食べている時の自身を知ることである。
だから五穀を知るとは、五穀を通じた自身を知ることである。
五穀を食べるために、五穀を作る。
五穀を作れば、五穀を知ることになる。
五穀を知れば、五穀を通じた自身を知ることになる。
五穀を食べるために、自身を知るのである。
いや五穀を食べるたびに、自身を知らされることになる。
田の心が思うの表意である。
田んぼの心とは、米を作ることである。
また、字源の思の田とは、小児の脳のことである『大漢語林』。
子供の脳で考え、心で感じるのが、思うことなのである。
だから子供のような思考が、米を作ることなのである。
米を作るとは童心に返ることである。
自分の食べる米を自分で作るのをよしとするのは、子供の頃の発想でもある。
古風に、なるべく自力で作ろうとすれば、自力で出来ないことを知ることになる。
五穀に最も必要な光・空気・水・土地は自分では作れないことを知ることになる。
五穀をつくるのは五穀であり、自身では決して五穀を作れないことを知ることになる。
なるべく自力での五穀作りは、自身の無力さや限界を知ることになる。
自然に、自然に感謝する自身を知ることになる。
それに五穀を作る自身を知れば、五穀を作っている他の人を知ることになる。
今まで五穀を作ってきた人たちを知ることになる。
これから五穀を作る人たちを知ることになる。
一人で作っても一人ではない自身も知らされることになる。