2023.10.13
己の怠惰と生産性の無さに辟易するも全て季節のせいにする。
音楽のあり方について考え込んでしまう出来事が多く起こった。
わたしは音楽が好きなのだと思う。
ご機嫌な音楽がかかっていたらご機嫌だし嫌なことも簡単に忘れる。クリアなミキシングに唸ったり、ザラついた真空管の音に涙したりする。歌詞の情景とトラックの控えめな彩りの意図や作品の成り立ちを考えたりもする。
音楽が好きな人は言葉にせずともみなそのように思考を動かしているだろう。
では音楽を消費する人はどうだろう?
好きでなければ消費しない、とも考えつつ「消費」という言葉に侮蔑的な意味を込めて言う。
例えば昨今の流行歌のパターンで言えば、再生してすぐに「サビ」がやってくる。みんなすぐに覚えて歌えるようなキャッチーでハイテンポ/ハイテンションなサビが。そしてすぐ次へ送る。別の曲がかかる、またサビから。
それが消費者にとっては当たり前で、それが心地いいのだろう。
そういった消費者たちはどのようにパーティを楽しんでいるのだろうか?
優れた(もしくはわたしの好きな)DJ達は持ち時間と音楽を充分に使ってストーリーを作る。さっきまで誰かがかけていた音楽を包括しながら別の着地点を用意してくれたり、気づけば踊っているような空間を創造してくれる。割と魔法に近い。
そして音楽を好きな人たちはそのストーリーを楽しみ、心を動かされたりするのだ。
短くても一時間、長ければ数時間、わたしたちは踊りながら酒を飲み友人と同じ時間を共有し、おしゃべりなどしながらDJのかける音楽に胸を高ならせたり、その一晩、その一時間だけで、何日も何年も語り継がれるドラマが生まれたりもする。終わってほしくない夜はすぐに明け、空の色さえ知らない色に見える。
しかし、消費者にそれは届いているのだろうか?
先日、たくさんの知らない人がいるパーティに遊びに行った。
そこでもわたしの好きなDJ達は遊びに来ているひとに向けて最高のプレイをしていた。わたしは最前線で踊らされ続けていた。
しかし、視界に入る者達は誰も踊っているのだが、どこか妙だった。
両手を上げ、盛り上がっているように(誰かに)見せ、1分ほどで去っていくのだ。両手を上げたまま。
両手を上げたくなるような曲がかかっている時にフロアを離れたいだろうか?そもそも手前の文脈もわからないまま両手を上げる事などあるだろうか?この後、どんな音楽がかかるか知りたくないのか?
この疑問を彼らに投げても的を射る答えは返ってこないだろう。きっと『わからない』が用意されている。
「消費」を目の当たりにした気になり、絶望的な気分になった。
音楽の快楽を享受出来ず、その場にいることをある種ステータスとして、自身のアクセサリーとして消費する文化をわたしは知らない。
彼らにとってDJのプレイはどうでもいいのだ。DJの名前と、その場にいた事実を証明するセルフィーがあれば、十分なのだろう。
『よくわからないけどイケてるらしい。よくわからないけど、価値があるモノらしい。よくわからないけどカッコいいDJらしい。DJがなにか、わからないけど。』
何も感じないとはそう言う事なのだろう。
わたしは誰のために何を作っているのだろう。
少なくとも消費者に向けて何かを作っているわけではないと信じたい。
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